二 皇帝の従者と提督
時は少し遡り、皇帝ゼラがファイアランドへ、南征将軍レイオンがエルダーグランへと、それぞれ出征するよりも前のこととなる。
皇帝の従者、ユキは皇宮の図書室にいた。ゼラの傍にその姿が見当たらない時は、まず図書室に行ってみればいいと言われるほど、彼女はそこに入り浸っていた。皇帝は鋳物師に命じて図書室の鍵をもう一つ作らせ、それをユキに与えていた。彼女はいついかなるときも自由にこの図書室に出入りしてもよいというお墨付きを皇帝から得ていたのである。彼女が書物から獲得した知識、そしてそれを元にして展開される知略は、ラスト大陸統一を図る皇帝ゼラの支えであり、何よりも皇帝自身が頼りにしている。
閲覧席の近くに設えられた暖炉では薪が赤々と燃えていたが、ユキの姿はそこにはない。彼女は背の高い書架が立ち並ぶもっとも奥まったところで、脚立の上に座り込んでいた。高いところにある本を取り出すためのものだが、目的の本を取り出して、そのままそこで読み始めてしまったのだろう。
「……東、より渡った竜使い達は――ううーん、ここは何て書いてあるんだろう……。取り敢えず、この部分は後で調べるとして、と。それから――」
ユキは、古書を広げてぶつぶつと呟いていた。ところどころインクが掠れ、難解な古語が使用されているためだ。彼女は貪欲な知識欲でもってノーザリア帝国の公用語以外の言語も習得していたが、その中でもこの本に使用されている古語は極めつけの難敵だった。
外では強風が吹き荒れ、細かい粒の雪が絶え間なく明かり取りのための窓を叩いている。暖炉のぬくもりもここまでは届かず、吐く息が白い。しかし、彼女はお構いなしだ。
「長じた……一族は、竜と――ううん、ここもわからない。ええっと、……は重い代償――」
唸るような風の音以外はない、広い図書室。書物の保存のために窓の大きさも最小限で、それゆえに薄暗い空間だが、たった今行き当たった言葉の不穏な響きになおさら暗く、重苦しいものに感じられてしまうのだった。ユキは傍らに置いていたカンテラの明かりを強めた。
気を取り直してページを捲った、その時だった。
「おーい、ユキちゃーん! ここにいるのかーい」
聞き慣れた男の声がした。
「オスカー提督?」
クールモリア家の当主にして皇帝ゼラの臣下、オスカー。ゼラの傍らにいて、彼女がオスカーを高く評価する言葉を何度も耳にしている。武装船団を率い、『冥界の魔物』との異名をもつ彼だったが、今の声はどこかのんびりとしたもので、その片鱗は微塵も感じられない。
「うーん、陛下のところでないなら、ここしか考えられないんだけれどなぁ……」
書架に遮られて、ユキのいる場所から彼の姿を見ることが出来ないのと同じく、彼からもユキの姿が見えないのだろう。彼女は本を閉じると脚立から降りた。最後の一段から飛び降りると、書架の合間からひょっこりと顔を出した。
「どうなさったのですか、オスカー提督?」
ユキの声に、オスカーは大仰な溜め息をついた。
「どうなさったのですか、じゃないだろう! なんでそんなところにいるんだ」
「ええと……?」
「そんな風に可愛く首を傾げても、俺は誤魔化されたりしないんだからな!」
つかつかと靴音も高らかに、大股でオスカーが近づいてくる。右手で持った本を胸元に抱え、左手にはカンテラを提げているユキを、彼は腕を組んで上から見下ろした。先ほどの言葉は取り消そう。彼が何に怒っているのかはわからないが、ユキの目の前に立ち塞がる彼は、海から突如現れた魔物のように見えた。
「仕方が無い」
「あのぅ……わぁぁぁぁ、あぁー!?」
ふわっと自分の身体が浮き上がったかと思ったら、オスカーの肩に担がれていた。まるで荷物か何かのように。
――可愛らしくない叫び声を上げてしまった。
「しょうが無いだろう。君の両手が塞がっているのだから」
彼は、娘一人を担ぎ上げているとは感じられない足取りで暖炉の側まで行き、片手で椅子を引き寄せ――つまりは、ユキも片手だけで抱えているのだ――そこに、彼女を座らせた。
「全く君は! この前も読書に夢中になって風邪を引いたのにまだ懲りないのか! 本を読むのは暖炉の傍でって言い聞かせたし、図書室の人間にも暖炉の火は絶やすなと命じたのにこのざまだ」
ようやくユキにもオスカーの怒りの原因がわかった。確かについ先頃、己の不注意の報いを受けたばかりだが、今は風邪など引いている場合ではないのだ。先日、ゼラは帝国内の諸将に招集をかけた。首都アイスブランドから見て西方、峡湾の国クールモリアを治めるオスカーが今ここにいるのもそのためだろう。近々皇帝は重大な発表をする予定だ。
「すみませんでした」
「そうやってしおらしくしているけれど、君はこの前も同じことを言っていたんだけどな?」
ユキの前にいるときの彼は、海賊とほぼ相違ない荒くれ者どもを率いている『冥界の魔物』の異名はどこへやら――という気安い雰囲気だが、こうして椅子に腰掛けている彼女を睥睨するオスカーには、確かに凄みがあった。
「はい、次からはちゃんと気をつけます……」
それも前回言っていたことと同じなんだけどな、とオスカーはぼやいたが、その辺で許すことにしたようだ。ユキはほっと胸を撫で下ろした。
「ところで、オスカー提督は何か私にご用だったのでしょうか?」
彼もクールモリア家の当主として、そしてこの帝国における事実上の海軍指揮官として多忙を極めているはずだ。
「んー? まあ、用というほどのことでもないんだけれどな」
オスカーは彼女から視線を外し、どこか遠くをみるような目をした。口元に微笑を浮かべているが、それは苦笑に近い。彼もこんな表情をすることがあるのだ、とユキはぼんやりと思った。
二人の間に沈黙が降りて落ち着かない態度になってしまうユキに、今度こそオスカーはいつもと同じように笑った。つい今し方自分が目にしたものは目の錯覚だったかと思うほどに、先ほどの表情を見事に消し去って。
「それにしても、ずいぶんと古い本だな」
ユキの膝の上に置かれている古書にオスカーの視線が注がれた。
「あ、これは――」
「竜――ふうん、陛下は竜操兵団を使うつもりか」
表紙に記されたタイトルは掠れ、消えかかっていたが、読み取れないほどではない。そして、船団を率いて海を縦横無尽に暴れ回るオスカーは目がいいのだろう。
「オスカー提督もご存じでしたか」
「まあ、名前くらいはな。詳しいことは俺も知らない。何しろあの連中は謎が多すぎるんでね」
「はい……」
◇ ◇ ◇
ユキがその存在を知ったのもほんの数日前のことだった。ゼラの執務室にて、二人で近々発表するつもりの南征計画をとりまとめていた時のことだ。ユキが淹れた茶を一口口にした後に、皇帝は諸将を前にしたときのように厳かに宣言したのだった。
「此度の戦では竜操兵団を用いようと思う」
「りゅうそうへいだん……?」
初めて耳にした言葉に目を丸くしているユキに、ゼラは表情を緩めた。
「そうか。ユキは知らないのだな」
「はい。申し訳ありません」
ゼラは首を横に振った。
「いや、お前が謝ることではない。簡単に説明すると、竜操兵団とは竜を操り、竜でもって敵を攻撃する隊だ。竜使いの一族で構成されている」
「竜使いの一族……」
聡明な彼女が、今は主の言葉を繰り返すだけになっていた。
「ただ、懸念がないこともない」
ゼラは執務机の上で組んだ手に顎を乗せた。
「父上はこの帝国を興す過程で竜使いの一族と契約した……そうだ。何度か彼らを従軍させていたが、命を受けて我が軍に加わる竜操兵団の数は減少の一途を辿っていった。竜使いの一族自体その数を減らしているそうだ。その原因は不明。今詔勅を出して、どれだけの者が応じるのだろうか――。何しろ竜使いの一族についてはわからないことが多いのだ。彼らについての記録も限られている。それが父上と彼らとの契約でもあったようだ」
戦時にあっては命を受けてノーザリア軍に加わる。しかし平時においてはノーザリア皇帝は竜使い達の『里』を安堵するが、相互不干渉を貫く。それが初代皇帝ウィラード・ウォーロンドと竜使いの一族との間で交わされた取り決めなのだという。
「此度の相手はエルダーグランと――」
ゼラは組んでいた手を解いた。そして、執務机の上に広げられていたラスト大陸の地図を指先でトン、と叩いた。
「ファイアランドだ」
◇ ◇ ◇
「ふむ。竜操兵団を使うとなると、対エルダーグランということになるな」
オスカーの言葉にユキも頷いた。まだゼラとユキとの間だけで検討されていることであり諸将には伝えていないが、此度はファイアランドとエルダーグラン双方に同時侵攻することになる。竜操兵団はそのうち、エルダーグランとの戦いに出征することになるだろう。
豊富な鉱物資源と優れた鋳造技術でもって、ラスト大陸では火器や武器の開発が最も進んでいるファイアランド。竜は強大な力を誇る生き物ではあるが、その牙で敵兵を食い千切る前に砲弾を撃ち込まれてしまえばひとたまりも無い。よって対ファイアランド戦線では竜操兵団はその力を充分に発揮することはできないだろう。
ユキの提言によってノーザリア帝国内でも兵器の研究、開発組織が設置されたが、その能力はまだまだファイアランドには遠く及ばない。
「で、君は竜操兵団や竜使いの一族について調査していたと、そういうわけだ」
「はい」
ユキが頷くと、オスカーは顎に手を当てた。このように戦の話題となると、彼もクールモリアの当主、そして海戦の英雄らしい表情になるのだなぁと、ユキはぼんやりと思うのだった。
「先日陛下から聞くまで、竜操兵団のことも竜使いの一族のことも知らなかったものですから。でも、そもそも彼らについて書き記した史料が極端に少ないんです」
「そう。あれは『秘された一族』だからね」
そう言うと、オスカーは図書室の隅に設えられた長椅子の上に、ごろりと横になった。
「オスカー提督?」
行儀の悪いことに靴を履いたまま、組んだ足が長椅子からはみ出している。
「君はまだここで調べ物をするんだろう? だから俺は監視役。本を読むのはいいが、ちゃんと暖かくしていること」
監視役だと言いながら、彼は欠伸をし、目を瞑った。彼も南への侵攻を前に領地から呼び寄せられ、決して暇ではないはずなのだが……。
半ば呆れながらも、ユキはそうっと立ち上がって閲覧席へと移った。もう一度読みかけの本を開くが、ふと視線を感じて顔を上げるとオスカーの瞼の下に隠されたはずの瞳が、じっとこちらを見つめていた。極力足音を立てないように気をつけたつもりだったが、彼女が動いたことを鋭敏に感じ取ったらしい。このあたりはさすがというしかない。
彼はユキが暖炉に近い場所で本を広げているのを確認すると、満足そうに再び目を閉じたのだった。本当に監視役としてここに居座るつもりらしい。
「監視」とはいうものの、どこか居心地のよさを感じるユキなのであった――。