六 迷い道
「よし、これで終わりだ」
「はい。ありがとうございました」
テオドルがそう言うと、向かい合っていたサギリは頭を下げた。
彼はそそくさと体の向きを変え、そっと溜め息を吐き出す。背後からは衣擦れの音が続いている。左肩を負傷した彼女には若干の後遺症が残ってしまい、左手の自由が利かない。衣服を身につけるのにも苦労しているようだ。
ボールランでの戦いが終結してからだいぶ日が経過した。重傷を負ったサギリも、テオドルの献身的な看病の甲斐あって起き上がることのできるまでに回復した。
目覚めた当初は、「自分を殺してほしい」などと物騒な言葉を吐いた彼女ではあるが、今は大人しくテオドルの指示に従い、体の回復に努めている。
ただ、負傷した箇所が箇所だけに、包帯の交換はテオドルの手を借りなくてはならなかった。彼とてすべらかな肌に残ってしまったひどい傷痕を前にしては邪心を抱くどころではないが、かといって異性であるサギリが自身に対して全く警戒する様子を見せないことは、それはそれで胸中複雑なのである。
「あの」
珍しく彼女の方から声を掛けられ、テオドルは振り返った。上衣を着終えた彼女は守り袋を首にかけているところだった。サギリの『竜珠りゅうしゅ』はただの石ころに変じてしまったが、彼女は外套の端の布を切り取って新しい守り袋を作り直し、それを肌身離さず首から下げていた。
「なんだ?」
「いえ。今更ですが、医術の心得があるのですか? 貴方のおかげで、ここまで回復しました」
彼女は服の上から、包帯の巻かれた左肩にそっと手を置いた。
「医術なんてたいしたモンじゃねぇ。ただ、戦場にいれば怪我は付き物だからな。自然と覚えるもんだ」
「そうですか」
会話はそこで途切れてしまう。口数の少ないサギリとではそもそも会話が弾むということがない。彼女としばらくこの小屋で過ごし、テオドル自身もずいぶん会話をする機会が減ってしまったものだと思う。その分、彼女の見えないところで独り言が増えているのかもしれなかった。
「じゃあ、俺は外で飯の支度をしてくるから」
「本当に、何から何まで申し訳ありません」
あまり表情を変えることのない彼女が申し訳なさそうに小さく頭を下げた。そういえば、竜操兵団りゆうそうへいだんの駐留地を初めて訪れた際には彼女にずいぶんと待たされたが、その謝罪が形式的なものだったことを思い出す。ブルーノ大隊長の依頼を受けたからとはいえ、突然押しかけたようなものだから無理はないのだが。今の彼女の態度は、あの頃とはずいぶんと違う。
小屋の外へ出たテオドルは乾燥した小枝を拾い集め、手早く火を熾した。幸いにして森の中では木の実や茸、山菜といった食料が豊富にあった。運が良ければ野兎などの小動物を捕まえ、肉にありつくことも出来る。
ただ、サギリは大きな怪我から回復したばかりとあって、食が細い。彼は採ってきた茸や捌いたばかりの野兎を細かく刻み、沸かした湯に放り込んだ。
しばらく煮込んでいる間に、テオドルはぼうっと焚き火を眺めていた。
何故、自分はこんなところにいるのだろうか。南征軍はグレイベア城へと撤退した。本来なら自分もそこにいるはずなのだ。それが、どうしてサギリと二人、今もボールラン近くで隠遁生活などを送っているのか。
一言でいえば、彼女を放っておけなかった。自分を殺して欲しい、それが竜使いの習いなのだから――真顔でそう言った彼女を放っておけば、本当に彼女は死を選ぶ、そう思った。これまでのテオドルならば死にたければ勝手にすればいい、そう言ったことだろう。現に彼女にも「勝手にしろ」とは言った。それでも何故か、彼女の傷の手当をし、今もこうして世話を焼いているのだった。
「おっと、いけねぇや」
鍋が煮立って噴きこぼれそうになっていた。この小屋は猟師達が休憩を取るためのものらしく、埃を被ってはいたが、生活していくのに必要な物がある程度残されていたのが幸いした。彼らがこの狩猟小屋に腰を落ち着けて以降、その猟師達が姿を見せることはなかったが、近くで戦争が始まってしまったために逃げ出したのかもしれない。
ここは開戦前も今も変わらずエルダーグラン領ではあるが、敵に見つかるということもなく、戦争があったばかりだというのに平穏に日々が過ぎていった。しかし、いつまでもこうしているわけにはいかないだろう。
「ま、こんなものでいいだろう」
テオドルは完成したスープに独り言ちる。さすがに彼はこれだけでは足りないので、余っていた野兎の肉を火で炙る。しばらくすると、なんとも腹の虫を刺激するいい匂いが辺りに立ちこめるのであった。
スープと肉とで腹を満たし、サギリの方はと確認する。狭い小屋ではあるが、彼らは端と端とで妙な距離をとってそれぞれ食事をしていた。彼女がゆっくりと匙を口元に運ぶ様子を見るともなく眺めてしまう。軍隊に入って、食事といえば同じ隊に配属されたむさ苦しい連中がただ空腹を満たすが為だけに貪り食う光景が日常となっていたテオドルからすると、彼女の所作が美しくも見えるものだ。
だが、やはり食は進まないらしい。それに、ずいぶんと痩せた。傷の方はだいぶ良くなったのだが、元々白かった肌はさらに青白く、血の気がない。
テオドルの視線に気がついたのだろう、彼女が顔を上げる。すでに彼が食事を済ませているのを見て取ると、彼女はまたも謝るのだった。
「すみません、食べるのが遅くて」
何かにつけて彼女は謝ってばかりいる。誰に言われたわけでもない、テオドルが勝手に世話を焼いているというのに。
「構わん。食いながらでいいから聞いてくれ。これからのことなんだが――あんたは、どうするつもりなんだ?」
テオドルが水を向けると予想通りの言葉が返ってきた。
「私は、里に戻るつもりです。私が一族を託した従弟も戻っていることでしょうし」
「その体でか?」
鋭く切り込むと、サギリは俯いた。未だ自由に動き回れるほどの体力が戻っていないことは彼女自身が一番よく分かっていることだろう。
「それで、戻って、その従弟とやらに言うのか? この前、俺に言ったようにあんたを殺せって? あんたがあんたの父親を手に掛けたように、今度はその従弟にあんたを殺させるのか?」
サギリは、静かに匙を椀に置いた。
「それは……、彼にはこの先一族を率いてもらわねばなりません。長としての務めを――」
彼女は落ちつきなく胸元の守り袋を弄っている。里に戻ると言い切った時は静かながら決然としていたというのに、今はずいぶんと様子が異なっている。おそらく、テオドルが持ち出した『従弟』という言葉が彼女にそうさせているのだろうと彼は見た。自分のことはまるで他人事のように話す彼女だが、周囲の人間のこととなると勝手が違うらしい。
「なあ、あんた――」
「……!」
彼は立ち上がって大股でサギリに近づくと、そのすぐ目の前にしゃがんだ。そして、彼女の腕を取る。守り袋に触れていた指先が引き離された。
「あんたはこの手で何人の人間を殺してきたんだ?」
至近距離から彼はまっすぐに睨み付ける。竜使いの長だった娘が、その眼光の険しさに気圧されていた。
「ボールランの戦いで少しずつ竜の姿が減っていた。それと同時に竜操兵団の数も少なくなっていったな。そいつらはエルダーグランの連中に殺やられたんじゃねぇ。あんたが――」
あの夜、野営地から少し離れたところで出逢ったサギリ。彼女の装束は大量の血を浴びていた。あの時の彼女はあくまでも冷静な態度で竜の体を清めていたためだと答えた。それが正しいのかもしれない。しかし、ひょっとしたら――。
「そうです。私、が……」
間近にあるテオドルの瞳から目を逸らし、今にも消え入りそうな声でサギリは答えた。
「そうやって、心を殺してあんたは『長の務め』を果たしてきた。それをまだ続けるつもりか? あんたの従弟に押しつけて」
「……え?」
彼女は顔を上げた。思いもかけぬ言葉を耳にしたという表情で茫然とテオドルを見上げている。
テオドルは掴んでいたサギリの腕を放した。とてもあの大剣を振るえるとは思えない、細い腕だった。
そして、彼女と並んでその隣にどっかりと腰を下ろす。
「あんたの従弟は、あんたが『長としての務め』だと教えられたようにあんたを殺す。そして、そのまた次の奴に『務め』だと教えて殺されるんだ。それだけじゃない、先に竜に死なれた一族の人間を殺さなきゃならないんだろ」
彼は言葉を飾らず、事実をサギリに突き付けた。
「それに、あんた達は確かに竜をいいように使う力を持っているらしいが、あんた達はその力をどうしたいんだ? 竜を使ってボールランでのように敵兵――人間をたくさん殺して、それがあんた達のやりたかったことか?」
「それ、は……」
サギリが答えられずにいると、テオドルは皮肉っぽく笑った。
「ボールランでエルダーグランの連中を何人も殺した俺なんかが言えることじゃないけれどな。だが、俺は軍人だ。田舎にいるよりはちっとは楽な暮らしができるかもしれねぇってそんな理由だが、自分の意思で軍に入った。だから、命令に従って敵兵は殺す。けど、あんた達は――」
ようやく、サギリが口を開いた。
「私達の竜使いの力は人々に恐れられ、迫害されたと、そう聞いています。家族や一族の者の命を守るために竜使いの力を使い、それがまた人々に恐怖を植え付けて、さらに追われることになったと……」
幼い頃から周囲の人間にまるで子守歌のように聞かされてきた話を繰り返す。一族の悲嘆、怨嗟は目に見えない鎖のように彼女の心に絡みついている。
「逃げて、逃げて、ようやく辿り着いた山中に隠れ住み、そこに里を作ったといいます。里での暮らしは決して豊かなものではありませんでしたが、ようやく一族に平穏が訪れた――と。そこへ、有角人が攻め込んできました。ウィラード・ウォーロンドは竜使いの力を彼に差し出せば、里を竜使いの一族の領地として認め、一族の命を脅かす脅威全ての排除を約束すると言ったそうです。それは、一族が何よりも望んできたものでした」
「ふん、相手が最も欲しいものを即座に見抜いて、それを与えてやる代わりに自分の役に立つ力を差し出させる。上手いやり方だな」
テオドルの言葉に同意するかのように、サギリは力なく笑った。
「彼は約束を守りました。……でも、その時からなのでしょうね。一族が生き残るにはこの竜使いの力に頼るしかない。私達がそんな風に思ってしまったのは」
彼女の指先がまた胸元の守り袋に伸びる。
「私は十五を過ぎても番いの竜を見つけることができませんでした。これは、一族では極めて遅いのです。いわば、落ちこぼれです。竜使いの力に恵まれなかった者は里から追放されます。私ももう少しでそうなるところでした」
テオドルにとっては、彼女の言葉は意外だった。何しろ、初めてその姿を見かけたときから、何やら神秘的な力を秘めているような、容易に触れてはならぬ存在に見えていたからだ。
「考えてみれば皮肉なものですね。この力ゆえに追われていた私達が、今度はこの力のために共に苦難を乗り越えてきたはずの一族の者を追放しようとしているのですから」
そう言いながら、サギリは不思議な気持ちでいた。一族のことをこんな風に捉えたことなど、これまで一度もない。一族の定めを遵守し、それをそのまま後の世代に伝承すること。それこそがもっとも大切なことだと思い、生きてきた。
隣にいる、この男の言葉は彼女に物事の新しい一面を見せてくれる。
しかし――。
「それでも、私は短い間でしたが、『竜使いの一族の長』でした。そして、それが定めだとはいえ、父を始めとする一族の者をこの手で『殺し』ました」
彼女は初めてその言葉を使った。
「私が奪ってきた命に贖うためにも、やはり、私は長として終わらねばならないのです」
「どうしても里に戻るっていうのか?」
「はい」
サギリは微笑んで頷いた。それは、先ほどの弱々しい笑みとは違って力強く、そして美しいものであった。
「存外頑固なんだな」
「里でもよく言われていました」
テオドルは溜め息を吐き出した。
「そうかよ」
今のサギリの体で旅ができるとは到底思えない。しかし、この女ならば例え這ってでも生まれ故郷に戻ろうとするだろう。テオドルも腹を括るしかないようだ。
「あー、そういえば」
ふと、先ほどの会話で思い出したことを思い切って口にしてみることにした。
「なんでしょう?」
「あんた、前に竜使いは番いの竜を見つけると、その竜と共にゆっくり年を取るって言っていたよな?」
確かにそのことをこの男に言った記憶があったので、サギリは頷いた。この男がどうして今、それを切り出してくるのかはわからなかったが。
「はい、そうです」
「で、あんたがその竜を見つけたのは、どのくらい前のことなんだ?」
ますます彼の意図が測れなかったが、彼女は素直に答えた。
「私がクオンと出逢ったのは十七の時で――今から五年ほど前のことになります」
彼女の答えにテオドルはほっと息をついた。
「……と、いうことは中身は婆さんってことじゃないわけだな。ブルーノ大隊長の野郎――」
彼の小声での呟きはすぐ隣のサギリにも届かなかった。
「あの、それが何か?」
「いや、何でも無いんだ」
テオドルの頬が無意識に緩んでいることにも、やはり彼女は気づかないのであった――。