八 果てなき旅路
ぽつん、と水滴がテオドルの鼻先を掠めた。見上げると、天は低く垂れ込めた鉛色の雲で覆い尽くされて、本来の空の色は見えない。
「雨……」
彼のすぐ後ろを歩いていたサギリも足を止めて小さく呟いた。彼女の額に光るものは雨ではなく汗だ。息をついて、彼女はきっぱりと言った。
「先を急ぎましょう」
竜使いの一族の里を去って数日。テオドルとサギリの二人はグレイベア城とは反対の方角に向かって移動していた。テオドルは勝手に部隊を離れ、サギリもまた既に多くの犠牲を出していたとはいえ、彼女自身の判断で竜操兵団を戦場から離脱させている。長として、一族の存続をその使命として生きてきた彼女は、混乱の中で軍令よりも一族を取ったのだった。
あの場に留まっていたならば、生き残っていたわずかな竜さえもまた命を落としていたかもしれない。――彼女達は術が施され、その存在を隠されていた魔法院において、何が起こっていたのか、知らなかった。
サギリは、テオドルが呆れるほどに何度も部隊に戻らなくてよいのかと問うてきた。ブルーノ大隊長ならば、ひょっとしたら彼が一時的に部隊を離れたことすらも不問にしてしまうかもしれない。
しかし、ボールランにおいてエルダーグラン軍に突破を許し、竜操兵団――竜使い達が敵兵の襲撃を受けているという伝令を耳にした瞬間のこと。彼の脳裏には何故だか長の娘の姿が浮かび、ブルーノが制止する声を背に駆け出していた。彼女に対してははぐらかし続けているが、こうなることはその瞬間に決定づけられてしまったのかもしれない。
再び歩き出したものの、サギリの呼吸が浅い。テオドルが調子を尋ねても、返ってくるのは「大丈夫です」という、ただその一言のみ。しかし、彼女は病み上がりなのだ。休ませてやりたいが、このままでは雨に濡れて体を冷やすだけだ。しばらくの間過ごした狩猟小屋のような、雨露が凌げるものがこの近くにあればよいのだが、そのような幸運はそうそう転がってはいないだろう。
「いや――」
思わず声となって出てしまった。足を止めたテオドルと並んで、サギリもまた立ち止まる。
「どうしましたか?」
「これを見ろ」
不思議そうな顔で尋ねる彼女に、テオドルは地面を指さした。
彼が指し示す先には深く抉られた轍が続いていた。雨が降り出した後にできたものらしい。
「一、二……三台、か……? それほど先に行っていなきゃいいんだがな」
「ええ」
二人は顔を見合わせると、先ほどまでよりも少しばかり足を速めて歩き出したのだった。
彼らの祈りは天へと通じたらしい。曲がりくねった道を進むとすぐに、幌を付けた馬車が目に入って来た。道に残されていた轍から推測した数と同じ、三台の馬車が行く手を塞ぐように止まっていた。だが様子が奇妙だ。うち一台の馬車が傾き、その周囲を何人かの人間が取り囲んでいる。――泥濘ぬかるみに車輪を取られて立ち往生しているといったところだろうか。
二人がその傾いている馬車に近づくと、一団の男達が泥濘に填まり込んでしまった車輪を持ち上げようとしていた。十くらいの少年も顔を真っ赤にして手伝っているが、少しばかり浮き上がるものの、すぐにまた元の状態へと戻ってしまう。
「俺も手伝おう」
テオドルは持っていた荷物をサギリに預けると彼らに加わった。
「よし、俺が声を掛けるからそれに合わせて一斉に車輪を持ち上げるんだ。いくぞ……せーの、そうだ、もう一息――」
彼の掛け声に合わせて一団の男達も懸命に車輪を持ち上げる。テオドルが加わった分だろうか、先ほどより勢いよく車輪が浮き上がった。
「もう少しだ、あと少し……頑張れ――」
「やった……!」
真っ先に少年が歓声を上げた。見事車輪を泥濘から脱出させることに成功したのだ。一団の者達も嬉しそうに顔を綻ばせた。
「助かったよ、兄さん」
後ろに下がって様子を見守っていた恰幅のいい、中年の女が近づいてきて、声を掛けてきた。
「あんた達も旅の途中かい? ずいぶん濡れちまっているじゃないか。あたしらもここいらでちょっとばかり休憩を取ろうとしていたんだ。馬車に入って雨宿りをするといい」
女は人好きのする笑顔でそう言う。
テオドルは即座に頷いた。
「助かる」
サギリもまた、女に向かって丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます。この雨で困っていたところです」
「兄さん。あんた、腰から剣を提げているが、軍人かね?」
女の後ろから、彼女と同じくらいの年齢の、こちらは対照的にひょろりと痩せ細った男が胡乱な目で二人を――というよりも、テオドルを見ていた。睨み付けていると表現した方がより相応しいのかもしれない目つきだ。確かに、大きな剣を提げている人間は人を警戒させるには十分すぎるだろう。
「俺は――」
テオドルが口を開きかけた、その時だった。
「まあまあ、いいじゃないか。ほら、そんなことよりも、皆いつまで雨に打たれているつもりだい? さあ、馬車の中に入った、入った」
女の明るい声が張り詰めたような緊張感を霧散させる。
「しかしな、ミナ……」
ミナと呼ばれた女は鼻先で笑った。
「あたしはこれでも人を見る目には自信があるんだ。じゃなきゃ、商売なんざやってられるもんか。怪しい奴ってのはね、臭うのさ」
そう笑って、彼女はヒクヒクと鼻をうごめかせるのだった。やり込められた形の男は、溜め息をつくとその場から離れていった。
二人のやり取りにはテオドルとサギリも呆気に取られ、眺めているしかない。
「さあさあ、あんた達も」
ミナが顎をしゃくって一台の馬車を指し示した。彼女の声に急き立てられるように、まずはテオドルが馬車の後部に上がり込んだ。幌の中の三分の二ほどを積み荷が占拠していて空いている空間はあまり広いものではない。ミアは商売といったが、この一団は行商団といったところか。
「ほら」
泥濘に足を取られまいと苦戦しているサギリに向かって彼が手を差し伸べる。
「はい」
その手を取るが、雨に濡れているというのに異様なくらい、彼女の手は熱かった。
「あんた、熱があるのか!?」
テオドルの大声に、他の馬車に乗り込んでいた者達までが何事かと顔を出している。
「まあまあ、この雨だからね。あたしので悪いけれど着替えを持ってくるから、旦那さん、着替えさせておやりよ」
ミアの言葉にサギリは仰天した。どうやら彼女は二人を夫婦だと勘違いしているらしい。
「いえ、あの、私達は……」
サギリが声を上げたが、ミアはとっくに身を翻していたのであった。
強く手を引かれて我に返る。テオドルは何も言わないが、早く雨が凌げる馬車の中に入れ、ということのようだ。
「あの連中に何と言うつもりだ? あんたは竜使いの一族で、俺はノーザリアの軍人だと?」
テオドルはどっかりと腰を下ろした。その隣にサギリも並ぶ。
「それ、は……」
「ここは元々エルダーグラン領だ。おそらくあの連中もエルダーグランの人間だろう。あんた達竜使いのことは知られていないとしても、俺がノーザリア軍だと知られるのは厄介だ」
テオドルの言う通りだ。彼の素性は伏せておくのが賢明だろう。
「まあ、この剣で疑われたがな」
彼は軍に入って以来の相棒を一撫でした。
「俺は用心棒で、あんたの警護をしているということにしようかとも思ったが、あの女、人の言うことはまったく聞いちゃいねぇ」
「……そうでしたね」
「ちょいとお邪魔するよ」
幌に叩きつけられる雨音の合間を縫って声が聞こえてきた。ミアが戻ってきたのだろう。ただし、お邪魔しているのはテオドル達の方なのだが。
「よっこらしょっと」
彼女は片手に荷物を抱えながら、大儀そうに馬車に乗り込んできた。
「これが着替え。兄さんのもあるよ。あんたは頑丈そうだが、それでも油断しちゃいけないからね」
「助かる」
ミアは包みをテオドルに押しつけると、もう一つ持ってきた小さなカップを差し出した。
「それからこっちは熱冷ましの薬湯だ。奥さんに飲ませておやり」
彼は黙ったまま、薬湯も受け取る。
「ありがとうございます。あの、お代はこれで足りるでしょうか」
何やら懐をごそごそと探っていたかと思うと、サギリは片方の手を広げた。白い掌の上に載っているのはサンダラー銀貨だ。エルダーグランの――サンダラー地方をはじめ、ボールランやアンダーリアといった各地で広く流通する貨幣である。
銀貨を確認した女はにやりと笑った。そして、この馬車に積み込まれた荷物の内の一つを取り出す。
「あたしら商人は金には忠実だからねぇ。こいつは山羊の乳でつくったチーズだけれど、これもまけとこう。熱が下がったらお食べ。そんなに細っこい体で、栄養をつけないとね」
そう言ってサギリの手から銀貨を取ると、代わりに小さな包みを置いたのであった。
「今のサンダラー銀貨はどうしたんだ?」
ミアが出て行ってから、テオドルはサギリに尋ねた。
「里では基本自給自足でしたが、それだけではどうしても足りないこともあります。そういうときは里から出て、あの方達のような商人から必要なものを買うのです。里はノーザリア領ではありましたが、エルダーグランの街の方が近かったので」
彼女はそう説明すると、小さな袋をテオドルの目の前に置く。床に置いた瞬間、じゃらりと重そうな音がした。
「里を出る時、トウタが持たせてくれたのです」
サギリは懐かしむように従弟の名を口にしたが、ふと何かを思い出したのか、口元に手をやっていた。
「どうかしたのか?」
彼女は慌てたように首を横に振った。
「いいえ。――こちらはあなたに預けます。好きなように使ってください。これまでも、散々お世話になってきましたから」
「いや、いい」
テオドルはじっと床の上の袋を見つめていたが、やがてそれを彼女の方へと押し戻した。
「でも」
「その金が必要な時はあんたにそう言う。だから、それはあんたが持っていろ」
一度言葉を切って、テオドルは続けた。
「それよりも早く濡れた服を着替えた方がいい。俺もあっちを向いて着替えるから」
ミアから受け取った荷物の中から男物と思われるものを抜き取ると、残りをサギリに渡す。
「そ、そうですね……」
狭い空間で二人は背中合わせになる。実のところ、サギリの看護をしている間に彼女の肌を目にしているわけだが、それは必要に迫られたからであって、危急の場合でないならばやはり若い娘だ、それは避けるべきで――などと、テオドルは頭の中で目まぐるしく言い訳を繰り出していたのだった。
雨音が続く中、彼は手早く着替えを済ませてしまう。そして、頃合を見計らって後ろの彼女に声をかけた。
「着替えは終わったか?」
「はい」
テオドルが振り返ると、サギリもまたこちらに向き直る。目が合った瞬間、二人は揃って吹き出してしまったのだった。
サギリが身に纏う衣服は特に横幅が多く余り、ずり落ちて肩が露出してしまいそうになるのを手で押さえつけている有り様だ。一方のテオドルはというと、丈がまったくもって足りていない。
「まあ、これでも、濡れたままの服よりはありがたい」
「そうですね」
もう一度、二人はひそやかに笑い合った。
◇ ◇ ◇
テオドルはたった今、耳にしたばかりの信じ難い話に思わず身を乗り出しかけたが、すんでのところで自分自身を抑えつけた。
雨は上がり、今は頭上に星が瞬いている。ミア達の行商団は馬車が立ち往生してしまった場所から少しばかり進んだところで今晩は休むこととした。
火を熾し、食事を取る彼女達の輪に彼も加わる。サギリはというと薬湯を飲んだ後に睡魔に見舞われたようで、今は馬車の中で眠りについている。
焚き火を囲みながら話に花を咲かせている様子は、軍隊にいた時の野営地での食事時を思い起こさせられたのだった。
話題はこのラスト大陸で繰り広げられている三国同士の戦いだ。彼ら商人達は戦火を避けてどの経路を取るのがもっとも安全か、情勢の把握に余念がない。
テオドルは炙った塩漬け肉をありがたく頬張りながら、黙って彼らの会話に耳を澄ませていた。そして――剣聖エイデンの死を知らされたのだった。
話し好きな男が大仰な手振り身振りを交えて、グレイベア城においての戦いを唾を飛ばすような勢いで語っている。エルダーグラン同盟軍はノーザリア帝国の南征軍を追い払い、グレイベア城を占拠、かつて帝国に奪われてしまったという豊穣の宝珠も奪還した。
この話が盛り上がるのはここからで、精霊王エリオンは、撤退していくノーザリア軍の殿しんがりを務めた剣聖エイデンと熾烈な戦いを繰り広げて見事敵将を討ち果たした。だが、同時に敵でありながらも高潔なる騎士としてエイデンを讃えた精霊王の、その気高き心は人々の胸を打ち、この物語を唄い、語る吟遊詩人達でさえ、涙なくして語れないほどだという。
(亡くなったというのか、あの剣聖エイデンが。一騎打ちに敗れて)
大隊長ブルーノ・ペイロンはこの戦いは厳しいと口にしていた。今、帝国の剣たるエイデンを喪い、その言葉はますます現実味を帯びてきた。
「これで、戦いが終わってくれれば良いのだけれどねぇ」
ミアが溜め息を吐き出しながら、呟いた。
「まあ、そうさな。こんな話は物語だけでいい」
さっきまでの勢いはどこへやら、行商団の皆に語って聞かせていた男も彼女の言葉に同調する。自身の国が戦いに勝ったというのに、彼らに喜びはない。
戦乱を制して大陸に覇を唱えるよりも、平和で豊かな暮らしを。人々の願いはそんなささやかなものだ。軍に入る前の、片田舎で暮らしていたテオドルとてそうだった。
「おや、あんた。塩漬け肉は口に合わなかったかい?」
しばらく食事の手が止まっていることに目敏く気がついたミアが声を掛けてきた。その声に、他の者達の視線も一斉にテオドルに集中する。ミアは親しく話しかけ、この場に彼を招き入れてもくれたが、まだ他の商人達は遠巻きに眺めているのだった。
「いや、そんなことはない」
テオドルは彼らの目を気にすることもなく、冷めかけた肉にかぶりついた。
「あたしらは戦いも終わったというから、ホースヒルへ行くつもりなんだけれど、あんた達はどこへ向かう途中だったんだい?」
ミアの問いかけに、彼は咄嗟に答えることができなかった。
サギリの里にはもう戻ることはできない。しかし、だからといって行く当てもない。そして、彼が所属していた南征軍の指揮官、レイオン将軍もこの地から撤退していったという。
「行く当てもないってなら、あたし達と一緒に来るかい?」
「ミア」
彼女を窘める声を上げたのは昼間と同じ痩せた男だ。彼女の亭主で名はサウルというそうだ。
「なんだい。困っている人間を放っておけないじゃないか。それに、剣を使えるというならば、護衛役にぴったりじゃないか。ファイアランドの連中は引き上げたと聞くが、戦いが終わったばかりだからね」
サウルは諦めたように首を振った。こんなやりとりを繰り広げているが、サウルは本気でミアを止めようとしているわけではないらしい。即断決行の多い妻に対して、用心深く、一言口を差し挟むのがこの夫の役割だそうだ。夫婦として、互いが相手にとって欠かせない存在なのだろう。
ホースヒル。エルダーグランの自由都市。
その名はテオドルの胸に魅力的に響いた。サギリが不在の場で決断することに躊躇いはある。そしてもう一つ。己は戦場にてエルダーグランの兵士達を、彼らの同胞達の命を散々奪ってきたのだ。それでも。
「あんた達に同行させてほしい。よろしく頼む」