剣聖に捧ぐ鎮魂歌

一 剣聖

「雪か……

 老将の嗄れた声に、精霊王エリオンは天を仰いだ。低く垂れ込めた鉛色の雲。しかし、雪の降るような気配はなかった。

 死に行こうとする男が見たものは、故郷の懐かしい情景か。この地で、剣に生きた生涯を終えようとしている彼が、ふるさとの降り積もったばかりの新雪を踏むことは二度と叶わない。

 ヒョォォォォォ。

 風が悲しげに、噎び泣くように吹いた。

「ここに眠れ、古き戦士よ」

 その声に従うかのように、剣聖の瞳は永遠に閉ざされたのであった――

二 氷海の提督と南征将軍

「酒だ! 酒を持ってこい! とびっきりつえェやつをなァ」

 静まり返った甲板に、氷海の提督オスカーの怒声が響き渡った。

 剣聖エイデン、精霊王エリオンに敗れ、グレイベアの地にて没す。

 南征将軍レイオンの撤退は無事成ったが、オスカーが率いるクールモリア艦隊を追って来たのはエイデン本人ではなく、彼の訃報であった。

 敵将エリオンは偉大なる剣士に対して敬意を払い、その死を伝える使者を遣わした。レイオンもまた使者を丁重に迎えたのだった。剣聖の仇と色めき立つ騎士達を制して使者を返した後、艦隊は帝国を護る剣たる忠臣の死を悼み、悲しみに包まれた。

 大きな体躯を誇りながらも肩を落とした船員が、盃になみなみと注いだ火酒を差し出すと、オスカーは唇を歪めて笑った。香草で風味づけられているが、癖も度数も高いものである。

「おう、そっちの瓶も寄越せ」

 船員が投げた瓶を片手で受け取ると、彼は階下の船室へと向かったのだった。

   ◇   ◇   ◇

 右手に盃、左手に火酒の瓶を持って手が塞がっていたオスカーは、ブーツで扉を数回蹴り上げた。その向こう側にいる人間が動く気配がして、やがて扉がゆっくりと開かれる。そこにいたのはレイオンであった。

 オスカーは彼が勧めるまでもなく部屋に入り込んだ。男二人となると窮屈に感じられるほどの狭い空間であるが致し方ない。彼は取り付けられている簡易的な寝台にどっかりと腰を下ろすと、盃を呷るのだった。

「酒肴の用意なんぞないぞ」

 軽口を叩くレイオンであるが、その顔色は優れない。

 剣聖エイデンは見事に彼の役割を果たした。しかし、宝珠は失い、帝国が誇る剣の使い手をも亡くした。ボールラン、グレイベアと転戦し、苦況が続いているがゆえの疲労も色濃い。

「ったく、俺はどんな顔で陛下とユキちゃんに会えばいいんだ」

 もう一口、強烈な火酒を嚥下すると、オスカーはふう、と息を吐き出した。

「それは俺も同じことだ。エイデンがグレイベアで精霊王の足止めをしてくれたおかげで、未だこうして生きている」

 再び盃に口を付けようとしていたオスカーの動きが止まった。

「おい――

 レイオンは、微かな笑みを唇に刻んだ。それは苦いものであった。

「わかっている。俺は生き残らねばならなかった。陛下からノーザリアの軍の半数を預かった指揮官としてな。例え――剣聖エイデンを見殺しにしたとしても」

……そのような言い方はよせ」

 グレイベア城に残ったエイデン。彼は、今際の際に自身が見殺しにされたと思ったのだろうか。違うはずだ――そう思ってしまうのは身勝手な願いなのだろうか。

「爺さんは華々しく、見事に逝っちまって、俺達に多くの仕事を遺していきやがったからな。これから忙しくなる」

 気を取り直すように、オスカーは努めて明るく言った。

「ああ。ボールランの占領はならなかった。グレイベアも奪われた。しかし、これ以上我がノーザリアの地は――

 レイオンの瞳にも指揮官らしい力強い光が戻ってきた。

「そうだな。それから――ゼラ陛下、だ」

……

 レイオンは何も答えなかった。その顔にも何の表情もない。古くからの付き合いであるオスカーの前でさえ、彼は一切の感情を面に表さぬよう制御しているようにも思えてなからなかった。

 精霊王エリオンからの使いは、剣聖エイデンの最期の言葉を伝えてきた。

 ノーザリア帝国初代皇帝ウィラードの代からその忠誠心の篤さは知れ渡っていたエイデン。ウィラード亡き後もそれは彼の娘ゼラに変わることなく向けられていた。ノーザリア帝国の未来を双肩に背負った輝ける星、ゼラ。彼の心残りが彼女であっただろうことは最期の言葉を聞くまでもなかった。

 オスカーは注意深くレイオンの顔を見つめた。古くからの友人はその才覚が高く評価されていた。だからこそ南征将軍に任命されて軍を率いているが、同時に実力者ゆえに今の立場だけでは飽き足らず、至尊の座を虎視眈々と狙っているとの噂も絶えない。此度皇帝の忠臣エイデンが南征将軍に同行したのは、皇帝が従兄の監視役として彼を付けたのだと見る向きもある。

「なんだ?」

 旧友の視線にレイオンが僅かに顔を顰めた。

「いや、なんでもない」

 オスカーは彼の顔をから『何か』を読み取ることを諦めて、盃に残っていた酒を一気に呑み干した。

 軽い音を立てて瓶の栓が抜かれ、オスカーは空いた盃に新たな酒をなみなみと注ぎ込んだ。

 まだ呑むつもりなのかと、呆れ顔になるレイオンの目の前にその盃が突き付けられる。

「なんだ?」

 レイオンは繰り返した。

「お前も呑めよ」

 ニヤリとオスカーは笑っている。この部屋に勝手にやって来て、初めて彼らしい表情である。恐らく断ったら面倒なことになるのだろうということが容易に予想できた。それに、久しぶりに強い酒が欲しい気分でもある。

 レイオンは黙ったまま盃を受け取ると、喉を鳴らして強烈な火酒を流し込む。一度息をつくと、彼は船の進行方向とは逆に向かって盃を軽く掲げた。その先には――剣聖エイデンが命を散らし、眠っているグレイベアがある。

 残りの酒も一気に干したレイオンは、しばしその方角を遠い目で見つめていた。オスカーもまた、友と同じように無言のまま、彼らが後にしてきた地を眺めたのであった。

三 千人殺し

「フン、どいつもこいつもシケた面ツラをしやがって」

 船の最後尾、甲板に直に座り込んで、ヘルヴォルはまるで水でも飲むかのように火酒の盃を空けていた。もう一方の腕では船員から奪い取った瓶を抱え込んでいる有り様である。

 剣聖エイデン、戦死。

 その悲報に普段は陽気な海の男達も意気消沈していた。エイデンはこれまでに数多の戦場で挙げた戦果によって彼らの尊敬をも集めていたのだ。彼ほどの剣の腕を誇る老将が斃されたという事実はノーザリアの戦士達の心胆寒からしめるほどの凶報であった。

「エイデンは、素晴らしい剣士だった」

 普段から口数の少ないスルトだが、はっきりとそう口にした。

 喉を鳴らして火酒を呷っていたヘルヴォルは一度息をつき、唇に残った酒を舐め取った。

「ああ。ジジイの割にはいい腕をしていたぜ。出来ることならオレが殺してやりたかったというのに、精霊王だかなんだかに斃されるとはつまらねェな」

 だが、その顔に不敵な、そして凶悪にも見える笑みを浮かべた。

「そいつ、あのジジイよりもつえェってことだろ? 面白い。今度はこのオレが相手だ」

「レイオンの奴を今殺すわけにはいかないのは気に食わねェが、エルダーグランにも殺しがいのある奴らが大勢いるらしい。楽しみだなァ、スルト」

 ヘルヴォルはあっという間に盃を空にしてしまうと、抱え込んでいた瓶から新たに酒を注ぐ。スルトはというと、瓶の酒もそろそろ足りなくなるだろうと立ち上がった。酒が足りなくなると彼女は暴れて面倒なのだ。余所に被害を出さないためにも船員達には新たな酒を供出してもらうしかない――

四 極夜の長

 クィンティカは自身の天幕で獲物の手入れをしていた。磨き上げた刃が僅かな明かりを受けてきらめく。多くの者の血を啜ってきた相棒だ。その妖しい魅力に、彼女はうっとりと目を細めた。

「剣聖エイデン様が死んだ。精霊王エリオンとの一騎打ちの果てに」

 笑みを刻んだ唇がゆったりと動き、歌うように言の葉が紡がれた。

「残念ですわ、エイデン様」

 ボールランの地では共に戦った、老将の瞳を思い出す。決して嘘偽りを許さない、真実を探り当てようとする眼差し。あれはまるでノーザリアの凍土のような厳しい瞳だった。

「ええ、本当に残念なこと……

 ――「極夜に光は無い」先代の言葉だ。十五代目よ……貴公の目的は何だ? なぜ表舞台に姿を見せた。

 険しい瞳でこちらをまっすぐに見据え、そう問うてきた老将。彼は、これまでの慣習を破り、陽の下に現れ出でた極夜の団――その十五代目の頭領に疑念の目を向けた。

 歌や噂でのみ密やかに語り継がれてきた、闇に生きる者達。それが暗殺ギルド、極夜の団だ。

「聡い方は好きですよ」

 クィンティカは獲物の刃をかざし、飽かず眺めている。血を欲する刃のきらめきは、彼女を捕らえて離さない。

「でもつまらないですね。貴方がもういらっしゃらないなんて」

 気を取り直したように、すぐに言葉を続ける。

「まあ、いいでしょう」

 クィンティカはくすくすと笑った。まるで無邪気な少女のように。

「そちらで見ていらっしゃいな。貴方が護りたかった国の行く末を、ね」

 彼女は得物を構えてみた。その刃が向かうその先はどこなのか――

五 角無しの皇帝と皇帝の従者

「あのレイオンが何度も手を焼き、ついにはエイデンまでをも亡き者としたエルダーグラン……。魔族に精霊族、そして追放者。統一した指揮系統など持たぬ烏合の衆かと思ったが、どうやら違うらしい」

 剣聖エイデン死すとの報がもたらされても、皇帝ゼラは表面上は変わることなく戦場での日々を過ごしていた。

 ファイアランド盟主が倒れたことによってファイアランド軍は撤退し、ブルーランドでの戦いはノーザリア帝国の勝利に終わった。これで先の時雨平原での戦いにおいての敗北の借りを返したわけだが、他方、対エルダーグランの戦況は思わしくない。

「エルダーグランの盟主は、あの開拓王アランの血脈に連なる者であるとの報告がエイデンからもあったことだしな――『開拓王の孫』、なるほど、やっかいな存在だ」

 傍らに控えているユキはハラハラと見守っているが、ゼラはエイデンの名を口にしてもその態度が揺らぐことはなかった。

 ゼラは不敵に笑った。

「『開拓王の孫』、その手腕この目で確かめさせてもらうぞ」

 それから彼女は、次から次へと各所に命令を下したのだった。

「陛下、そろそろお休みになってはいかがでしょうか。もう夜も更けてきました」

 ゼラの指示が一段落ついたところで、ユキは遠慮がちに声をかけた。さすがの彼女にも疲れの色が見え始めていた。

「そうだな。ユキ、お前をこんなに遅くまで付き合わせてしまった。お前はこのところ砲の研究、開発、さらには砲兵を整えるところまでやってのけたのだからな。今更ながら、此度の戦いでの功労者はお前だ、ユキ」

「いっ、いえっ……、私は剣を振るうことはできませんから、ただ、自分のできることをしたまでで……

 皇帝の賛辞に途端に慌て出す従者であった。ゼラが面白がるように微かに笑みを見せた。

「お前はいつもそうだ。ユキにはユキにしかできないことがあるのだ。それを誇れ」

「は、はい。ありがとうございます。……あの、陛下、お休み前に何か暖かいものでもいかがですか?」

 頬を紅潮させたユキはやはり居心地の悪そうな表情をしている。落ちつきなくうろうろと視線を彷徨わせていたが、話題を変えるためにか、従者らしい仕事を見つけ出した。

「それもいいが……

 急にゼラの声が固いものとなる。

「今夜は、あの麦酒を用意してくれないか」

 ユキの表情もサッと変わった。

 皇帝が求めた麦酒はシルバー家――剣聖エイデンの領地で醸造されていることで有名だ。そして、エイデンが好んで飲んでいたとも。

「それから……

 ゼラは、いつもの彼女らしくない小さな声で付け加えた。

「ゴブレットは二つ、頼む」

「畏まりました」

 皇帝の命を受けて、ユキが用意した麦酒と二つのゴブレットが目の前に置かれても、彼女は微動だにしなかったのだ。

「あのっ、陛下っ……

 意を決して口にした呼びかけは、思いがけず大きなものになってしまった。

「なんだ、ユキ?」

 従者の大きな声に驚いたように、ゼラ目を瞬かせている。

「私、今夜はクィンティカさんの天幕で休ませてもらいますのでっ……、では、おやすみなさいっ」

 身体を九十度に折り曲げて深々と一礼すると、ユキは天幕を飛び出していったのだった。

「そうか」

 この陣営ではもっとも広い天幕に一人残されたゼラは、麦酒の瓶を手に取ると、二つのゴブレットにそれぞれ注いだ。

「エイデン……お前は昔、こうして余と共に飲むのが楽しみだと言っていたが、存外その機会はなかったものだな」

 ゼラもエイデンも数多の戦場を駆け巡ってきた。共に馬を並べることもあれば、此度のようにそれぞれ別の戦場に向かうことも。

「父上とはよく飲んだのだろう? ……父上が羨ましいな」

 ゼラは片方のゴブレットを手に取ると、もう一方と軽く合わせた。繊細な音が弾けては消える。

「父上のところへ行くのが早すぎるじゃないか」

 恨み言をひとつこぼして、彼女は麦酒で喉を潤した。

「ああ、お前のところの酒は旨いな」

 夜は静かに更けていった――

   ◇   ◇   ◇

 青壁城。

 エルダーグランとの国境の地ロングヴァルを奪還すべく、皇帝ゼラは兵を率いて今まさに出立しようとしていた。

 彼女はあるものに気づいて天を仰いだ。

 鉛色の空から白いものがふわり、ふわりと舞い落ちてくる。

「雪か……

 ノーザリア帝国南部のこの地域は首都アイスブランドと比べるといくぶん気候も穏やかで雪も少ない。まだ少し雪が降る季節には早いと思っていたのだが――

 八つの剣の意匠――ノーザリア帝国の旗が風にはためいている。今その一つは失われた。しかし、皇帝ゼラの胸にはなおも生き続けている。

 彼女は剣を抜き、天を突く。

 そして、声高らかに叫んだ――

「全軍前進!!

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