氷の剣は血を欲す
ラスト大陸統一のため、いざ、ファイアランド、エンダーグランを殲滅せん――!
皇帝ゼラの号令に応えて、諸将の間から熱狂的な歓声が上がったのはつい先刻のことだ。彼らは去ったものの、まだその熱気が漂っているようにも感じられる広間。皇帝の忠実なる臣下、剣聖エイデンは苦虫を噛み潰したような顔でその場に残っていた。彼の向かい側は床が高くなっていて、その上の玉座に皇帝ゼラは深く身を沈めていた。
エイデンがチラリと、皇帝の傍らに控えていたユキを見遣った。その視線を受けた彼女は身をかがめて、ゼラの耳元で囁く。
「陛下。私は席を外しております」
「その必要はない」
皇帝は即座に従者の言を退けた。そして、改めて目の前にいる忠臣を見据えて口を開く。
「この者は余の従者であるのみならず、我が軍の軍師でもある。余が見聞きすることはすべて、ユキも知っておく必要がある」
「それは承知しております。北方の逆賊討伐におけるユキ殿の手腕はお見事でございました。ですが――」
「ほう?」
ゼラの瞳が悪戯っぽくきらめいた。
「そなたはユキの才覚を疑っていたのではなかったか?」
その通りである。北方を根城にする逆賊の征伐において、ユキが示した奇抜な策を採るとゼラが宣言した際、最も強硬に反発したのがエイデンであった。異国の少女が示した策はあまりにも大胆すぎて、到底上手くいくとは思えなかった。それに、戦場にて華々しい戦果を上げて、戦というものを知り抜いている「剣聖」と比して、当時の彼女には実績がなかった。ところが、ゼラが反対意見を捩じ伏せてユキの献策通りに軍を進めた結果は、エイデンも予想しえなかったほどの大勝利だったのである。
「仰るとおりでございます。しかし、儂とてあのような結果を目の当たりにすれば、考えを改めざるを得ません」
一旦言葉を切って、エイデンはユキの方へと身体の向きを変えた。
「ユキ殿。今更と思われるであろうが、貴公の才を疑い、侮ったことを詫びよう。申し訳なかった」
剣聖と讃えられ、国中の尊敬を集めるエイデンの真っ直ぐな謝罪に、ユキは慌てた。
「あ、謝らないで下さい。あの、その……気にしていませんから……」
ゼラは、時には情を捨てた策をも立てるユキの狼狽しきった顔と、エイデンの生真面目な顔を面白そうに交互に眺めていた。
「だとしても、です。今、ユキ殿にはご遠慮いただきたい」
もう一度、ユキはゼラに囁いた。
「陛下。ええっと……ちょっと用があるので、その、オスカー提督に用があると言われていた、ような……気がしますので、失礼いたします」
ゼラもエイデンも、それが口から出任せであることは察していた。いや、気づかない方がおかしいだろう。それでも、皇帝は鷹揚に頷いてみせたのだった。
「ならば、お前は戻るがよい」
「……はい」
ほっとしたように息をつくユキは、ゼラとエイデンとにそれぞれ一礼して、広間を出て行こうとした。エイデンが感謝の念を込めて会釈を返すと、彼女は真っ赤になって何もないところで躓いてしまったのだった。
ユキが出て行って二人きりになっても、ゼラはまだ肩を震わせていた。
「――あの者は、敵を計略に嵌めるためならば、嘘八百をまるで立て板に水のように並べ立てるというのに、どうして普段はあんなにも嘘が下手なのだ」
このまま放っておいたら、いつまで笑っているのかしれたものではない。エイデンはわざらしく咳払いをした。
「すまん、すまん。して、ユキを追い出してまで、何の話だ?」
ゼラは足を組んだ。
「南征将軍にレイオン殿を任命した理由について伺いとうございます」
「従兄弟殿は一軍を率いるのに相応しい力量を備えているからだ。違うか?」
その通り、先帝の甥にあたるレイオンは実力者だ。それは誰もが認めるところである。十分すぎるくらいの才覚を備えているのだ。
「それに、ファイアランドへは余自らが兵を率いて出る。レイオンは先帝陛下の弟の子。釣り合いが取れているではないか」
「そこでございます」
エイデンの声が少しばかり高くなる。
「レイオン殿の父と、先帝陛下は――」
「確かに父上と叔父上は反りが合わなかったようだが、さて、従兄弟殿はどうかな」
ゼラはうっすらと笑った。
「あの男は父親と違って周りがよく見える人間だ。どう振る舞うのが己にとって最も得策であるか、それを理解している。今、余に対して反逆を企てても何の益にもならんことがわかっているのだろう。そう、今はな」
皇帝は不穏な言葉を自ら吐きながらも、楽しそうに笑っている。
「恐れながら陛下」
エイデンの声が、今度は腹の底から捩り出したような低いものとなる。壇上の玉座にゆるりと腰掛けるゼラを射貫くような強い眼差しを直と当てた。そこらの一兵卒ならば竦み、震え上がるほどの迫力だ。しかし、彼女は平然としている。
「このようなことは例え仮定の話だとしても、口にするだけでも憚られるのですが――」
歯軋りの音がしそうなくらいの形相である。
「此度の戦でレイオン殿は我がノーザリア軍の半分を麾下に置くことになります。エルダーグランとは不可侵条約でも結び、その軍勢でもって陛下に反旗を翻したら、いかがなさいますか」
「面白いことを言う、剣聖エイデン。そなたには剣だけではなく、軍師としての才覚もあったのだな」
エイデンの言葉すらも、ゼラはまるでそよ風のように受け流すのだった。
だが、次に表情を改めた。
「我が帝国の剣たるそなたもレイオンと共にボールランに出征してもらう。そなたがいて、従兄弟殿にそれを許すと?」
皇帝ゼラの、己に対する絶大な信頼。しかし、エイデンは歓喜に打ち震えている場合ではなかった。
「もちろん、そのようなことになりましたなら例え刺し違えることになりましょうとも、必ずや儂の剣にてお止めいたします」
例え刺し違えることになろうとも――エイデンがそう言うほど、レイオンの剣の腕は確かなものなのだ。それはゼラも承知している。
「よく聞け、剣聖エイデンよ」
ゼラは高らかに宣った。その澄んだ声は、彼女とエイデン、二人しか存在しない広い空間に響き渡ったのである。
「我が帝国の望みはラスト大陸の統一、支配。不可侵条約などと生ぬるい手を打って安寧を貪るような者を、我が臣民が指導者と仰げようか? それに、あの男の矜持も許すまい。仮にあの男が余に楯突こうとて、余が率いる軍勢とエルダーグランの者共との双方と戦うことになるだけだ」
ゼラは、忠実なる臣下の懸念を切って捨てた。初代皇帝ウィラード・ウォーロンドも、その子ゼラも、臣民達の前で自らの力を示し、彼らの指導者たらんと戦ってきたのだ。数多の戦場を駆け抜け、彼女に至ってはふたつの角を失ってもなお――。
「それに、な」
ゼラは玉座の肘掛けをそっと撫でた。
「従兄弟殿に、余よりも早くラスト大陸の統一を成し遂げられるほどの器量があるというのならば、いつでもこの玉座などくれてやるというのに」
「ゼラ様!」
彼女が帝位についた後は改めたのだったが、つい皇帝ウィラードの「皇女」であった頃に戻ってしまっていた。ゼラにとっても懐かしい呼び方だった。
彼は眉を吊り上げ、顔を真っ赤にしている。エイデンの表情にゼラは苦笑した。
「そう怒るな。言ったであろう? 余よりも早く統一を成し遂げられるならば、とな」
「余を斃す――やれるものならば、やってみるがよい」
ゼラは虚空にうっとりと微笑みかけ、呟いた。
長年仕えていたエイデンでさえ思わず息を飲むほどに――その姿は凄絶な美しさに彩られていた。彼は、見えない力に押さえつけられたかのようにその場に膝をつき、深く頭を垂れたのであった――。