第一章 王女ユーリシア

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 この日の宴の主役はリーディス王国第一王女ユーリシア、そのはずであった――

「相変わらずだな」

 礼装の偉丈夫は侮蔑も露わに吐き捨てると、グラスを一気に干したのだった。

「五年ぶりのリーディスワインはどうだい、クラニクス」

 親しげに声を掛けられて振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべた丸顔の男が立っていた。彼は溢れんばかりに菓子が載った皿をしっかりと抱え込んでいる。

「パヴァールか」

 パヴァールと呼ばれた丸眼鏡の男は、皿から焼き菓子を摘まみ上げると口の中に放り込んだ。途端にその奥の瞳を細め、血色の良い頬をほころばせる。そういえば、この男は甘い物に目がないのだったとクラニクスは思い出した。久しぶりの旧友との再会だが、記憶の中にある彼の姿よりもさらに丸くなっているような気がする。パヴァールもまたこの宴に参加するに当たって礼服を着用しているが、ボタンがずいぶんときつそうではあるまいか。

「ワインの味ならば確かにヴォルテロワよりもリーディスだがな」

 リーディス王国はワインの醸造技術に優れ、各地で上質のワインが生産されているが、西の隣国ヴォルテロワ皇国ではもっぱら蒸留酒が愛飲されている。

 クラニクスはキースネン伯爵家の次男坊という気軽な身分を利用して、五年間ヴォルテロワ皇国に留学していたが、先頃帰国したばかりであった。

 空になったグラスに目敏く気づいた給仕が、新たなワインを注ぐ。これで何度目になるかは本人も数えてなどいないが、いくらグラスを重ねてもクラニクスは平然としていた。茶番としか思えないような宴だ、こうやってやり過ごすしかないではないか。

「ここの連中はまったく変わることがない。呑気なものだ」

「君こそ変わらないねぇ、眉間に凄い皺だ。それじゃ、ご婦人方に逃げられてしまうよ。甘い物でも食べて楽にしたらどうだい?」

 そう言いながら、パヴァールこそ二つ目、三つ目の菓子に手を出している。

「いらん。それに、女の相手ならばライナートに任せる。――そういえば、奴も来ているのか」

「そりゃあ、来ているんじゃないかなぁ。ユーリシア王女殿下をそっちのけで、どこかの部屋にご婦人を連れ込んでいなければいいけれど」

 のんびりとした口調のパヴァールは、ついに五個目の菓子を頬張っていた。

 クラニクスは、現に今、本来の宴の主役でありながらそっちのけにされている、王女ユーリシアを眺めやった。

 リーディス王国国王オイロフの第一子ユーリシア王女はこの日、十七歳の誕生日を迎えた。その祝いの宴であるというのに、明るい若草色のドレスに身を包んだ王女は、ひっそりと佇んでいる。まるで日陰で北からの風を耐え忍ぶ、頼りない花のような風情だ。

 彼女の背後には長身の男が直立不動の姿勢で控えていた。その無愛想な顔つきには見覚えがあった。ルードヴィク・カイエン。王女の護衛官を務める男だ。

 彼女の側にはもう一人、白髪交じりの細身の女がいたがそちらの顔は記憶にない。ユーリシアの女官であろうか。

 年若い王女の周囲は宴の賑わいから切り離された、どこか沈んだ空気があった。彼女に代わってその中心にあったのは側妃カタヴィナである。

 ユーリシアの生母――正妃ミレイヌは十年前、王女が七歳の時に不慮の事故で亡くなっている。以降、正妃の座は空位のままであり、その他に現在オイロフには二人の側妃がいた。そのうちの一人がカタヴィナである。

 側妃とはいっても、カタヴィナは国王の諮問機関、重臣会議の首席を務めるオルステード侯爵の妹である。そして何よりも、彼女は王子アンセルを産み、王太子の生母としてこの宮廷において絶大な影響力を誇っていた。

 そのカタヴィナは真紅の派手なドレスを纏い、兄のオルステード侯爵を筆頭とする大勢の貴族達に取り囲まれ、彼女こそが女王であるかのようだった。取り巻きの誰かが冗談でも言ったのだろうか、ドッと笑い声が起こって、周囲の人間は何事かとそちらに目を向ける。

 彼らの目は、まず目の覚めるような色のドレスを纏ったカタヴィナ妃、あるいはきらきらしい飾りで目立つ礼服に身を包んだオルステード侯爵に奪われるだろう。その次にようやく、彼らの傍らに立っている細身の少年こそが王位継承権第一位、王太子のアンセルだということに気づくのだ。

 姉の様子が気になるのか、何度かちらちらとそちらの様子を窺っていた少年だったが、突如間近で起こった笑い声にびくりと肩を震わせた。おどおどとした瞳で周囲を見回すが、母カタヴィナも伯父であるオルステード侯爵も取り巻き達との会話に夢中でアンセルを見向きもしない。

 アンセルは溜め息をつくと、もう一度姉に目を向けた。背の高い、彼女の護衛官が身を屈めて姉に顔を近づけている。少年は俯いて床に目を落とした。

 クラニクスもまた、何の気なしにユーリシアを眺めていた。護衛官の青年が何やら王女に話しかけている。それに対してユーリシアは力なく首を横に振った。彼女達のいる場所からは遠く離れているために、何と言っているかまでは聞こえない。

「おや、王女殿下の様子が気になるのかい、クラニクス」

 鼻にかかったような甘い声が聞こえてきた。この声の持ち主とも五年ぶりの再会となる。華麗な軍の礼装を纏った男が現れて、クラニクスと肩を並べた。彼には及ばないが、軍装の男もまた背が高い。

「気になるのかって、今日の宴は王女の誕生祝いだろうが」

「あー、そういえばそうだった。すっかり忘れていたけれど」

 男は、軍装の華やかさに引けを取らない秀麗な顔に、冷笑をひらめかせた。

「貴様……

 二人の会話にパヴァールもまた加わる。

「ああ。来ていたんだね、ライナート。君のことだから、またご婦人を連れて雲隠れかとも思っていたけれど」

 言葉の内容とは裏腹に、パヴァールはにこにこと屈託のない笑顔だ。ライナートと呼ばれた男も表情を改め、笑みを浮かべた。

「ああ。そのつもりだったんだけれど、振られてしまってね。他の子と名前を呼び間違えたらしくて、怒らせたようだ」

 クラニクスとパヴァールは顔を見合わせた。二人とも口には出さないが、意見は一致している。「それは怒って当然だろう。自業自得だ」と。

「さっきのライナートの言葉じゃないけれど、ずいぶんとユーリシア殿下のことが気になるみたいだね」

 パヴァールの言葉に、クラニクスの眉間に皺が刻まれた。

「ヴォルテロワの皇城でも王女のことはよく聞かれてな」

 二人とは少し距離をとっていたライナートが形のよい唇を歪めて笑った。

「ふうん。ヴォルテロワが差し出した皇女――ミレイヌ妃が亡くなって十年。リーディスにおけるヴォルテロワの影響力の低下を懸念しているというわけか」

 一切の装飾を排除した事実といえばその通りだが、さすがに衆目の前で堂々と口にするのは憚られる内容だ。呆れ顔のクラニクス、困ったような表情で肩を竦めるパヴァール、そして、涼しい顔で自身の長い金色の髪を指先で弄んでいるライナートと、三者三様である。

 かつてはリーディス王国の王都レイルウェルの文化が大陸の各地へと伝播し、大陸の華として君臨したものだが、今やこの国が誇るものはその文化のみとなってしまった。

 特に王国の西に位置するヴォルテロワ皇国の隆盛は目覚ましいものがあった。それゆえにクラニクスはかの国への留学を決めたが、リーディスの貴族であることを誇りとする一族の反発にも遭い、それは容易なことではなかった。

 現実は、ヴォルテロワ皇国の第三皇女――今は亡き正妃ミレイヌのことだ――を正妃に、という要求を唯々諾々と呑まねばならなかったというのに。

 一方、王国の東では古より小国が乱立し、長きにわたって戦乱が絶えることがなかった。しかし、五十年ほど前に混乱に終止符が打たれたのだった。それがアルトゥルクの建国である。この地域に流入した騎馬民族が乱立する小国を従え、西のヴォルテロワ皇国にも匹敵するほどの勢力を築き上げた。

 こうして、ヴォルテロワ皇国とアルトゥルクはリーディス王国を間に挟み、睨み合う恰好となった。

 武断的な体制によって勢力を伸張させてきたヴォルテロワ皇国は、リーディス王国にその軍事力を背景に皇女を正妃として迎えることを迫ってきた。

 実は、その時すでに国内ではオルステード侯爵の妹カタヴィナを正妃として立てる方向で話が纏まりつつあった。対して、オルステード侯爵のさらなる権勢の拡大を危惧した一部貴族達がヴォルテロワ皇国と結託して、皇女ミレイヌを正妃として迎えるよう国王に迫ったのだった。

 アルトゥルクの脅威と王権の安定――オルステード侯爵家の飛ぶ鳥を落とす勢いはオイロフにとっても楽観視できるものではなくなっていた。国王はヴォルテロワ皇国と反オルステード派貴族達の要求を呑んだ。かくして、カタヴィナは正妃候補筆頭から一転、側妃へと追いやられてしまったのである。

 正妃となったミレイヌは王女ユーリシアを産んだものの、十年前に亡くなっている。彼女が亡くなる少し前にカタヴィナの元に王子が誕生し、男子が優先されるリーディス王国においてはこのアンセルが王太子である。

「幼い頃は聡明な王女だという評判もあったが、今のあの様子ではな……

 クラニクスがユーリシアを見る目には憐憫が含まれていた。

 リーディス王国は女子による王位継承を否定してはいない。

 過去、夫の早世により我が子が成人するまでの間玉座を預かった女王は幾人か存在する。しかし、皆王子が成年となると王冠を譲り、自らは隠遁生活に入ったと『リーディス王国王統記』には記されている。国王の娘が王座に就いたという前例は存在しない。しかし、歴史上女王が存在することから、万が一王子が誕生しなかった場合、ユーリシア王女が王太子として立つ可能性も完全には否定されていなかったのだった。

 そのため、アンセル王子が誕生するまでの間、ユーリシア王女に対しては相応の教育が授けられていた。しかし、誰もが待ち望んでいたのは彼女が至高の冠を戴くことではなく、男子の誕生だった。ユーリシアが七歳を迎えた年にアンセルが誕生し、王女の教師達は皆王子付きへと変更させられたのだった。

 そして、ユーリシアが十七歳を迎えた今。この年齢であればとうに婚姻が決まっていてもおかしくはないのだが、そういった話は取り沙汰されることはあっても自然と消滅していく。

 アンセル王子に万が一のことがあれば女王として立つ資格を有した王女。カタヴィナ妃やオルステード侯爵の手前、その可能性を挙げることは憚られるが、現在オイロフには王子が一人しか存在しない。他国の王族、皇族に縁付かせることは難しい。

 国内の貴族はどうかといえば、王女の伴侶となることはオルステード侯爵家に正面切って挑戦状を叩きつける行為に等しい。令嬢カタヴィナを正妃として立てることは阻止した反オルステード派だが、それもヴォルテロワ皇国の後ろ盾、一派内での利害の一致があってこそである。

「国王陛下もあのご様子だしね」

 ライナートの言葉に視線を移せば、王女達から少し離れたところに国王の姿があった。宴が始まった際に一度、おそらく祝いの言葉をかけたのだろうが、それ以降はまるで彼女の存在などないかのように振る舞っている。

 その国王の態度に追従してなのか、それともカタヴィナ妃やオルステード侯爵の目があるためか、ユーリシアに声を掛ける貴族の姿はまばらだった。

「哀れな王女だ」

 ライナートの声は冷たく、空虚に響いた――

「ユーリシア様。顔色が優れないようですが」

 それまで微動だにせず、目線だけで周囲に気を配っていたルードヴィクが、身を屈めて主に話しかけた。少し眉根を寄せたその表情は、この男をよく知る人間ならば珍しく感情を露わにしていると捉えただろう。

「お黙りなさい、カイエン殿」

 ユーリシアが口を開くよりも早く、彼女の側にいた女官長のゾフィーネが細い身体を反らして長身のルードヴィクを睨み付ける。

「ですが、女官長――

 滅多に反論してくることのない彼が一歩も引くつもりはないという姿勢を見せたことに、厳格なことで知られる女官長の方が怯んだ。

 ユーリシアは力なく首を横に振った。途端にゾフィーネは勢いを取り戻す。

「そうでございますよ。今日は殿下のお誕生日。大勢の方がお祝いのために駆けつけてくださっているのですから」

 空々しいだけの言葉だった。今この広間を支配しているのはユーリシア王女ではなく、カタヴィナ妃だ。そんなことは誰の目から見ても明らかだというのに。

 王女は女官長には気づかれぬよう、そっと溜め息をついた――その時だった。

「おねえちゃま!」

 舌足らずな声が響いて、小さな塊が突進してくる。

「ヘルミナ! なんてことを!」

 続く女性の声が遠くに聞こえた。他にも小さな悲鳴が方々で上がる。

 自分の目線よりずっと下にピンク色のひらひらとしたものがかすめたような気がした。ぶつかってきたものを受け止め損ねてよろける。その瞬間、右足首に痛みが走った。

「失礼を」

 耳元で低い声が聞こえた。目の前には驚いたようにぽかんと口を開けている幼い少女。そして、背には自分の身体をしっかりと受け止めている筋肉質な感触。どうやら、この少女に抱きつかれ、体勢を崩してしまったところをルードヴィクに支えられて事なきを得たらしい。

 ドレスを纏った貴婦人が慌ただしく駆けつけてきた。もう一人の側妃、ウーリィカである。そして、ユーリシアの目の前で茫然と突っ立っている小さな娘がウーリィカの産んだ第二王女ヘルミナ――ユーリシアの三歳になる異母妹だった。

「ヘルミナ! ユーリシア様にご無礼を――

「そうでございますよ。ユーリシア殿下に万一のことがあったらどうなさるおつもりですか。――そもそも、ウーリィカ妃、あなたの躾が――

 ウーリィカの叱責に被せるように女官長が居丈高に責め立て、みるみるうちにヘルミナの丸い目に涙があふれる。ウーリィカは側妃として立てられる以前は末端の女官であった。王女を産んで側妃として立てられたことで立場は逆転したが、かつては自分よりも立場の上だった女官長を前にして項垂れていた。

「女官長、止めなさい」

 ユーリシアにしては珍しく強い調子で窘めると、もう一人の人間も割って入って来た。

「その辺でいいだろう。ヘルミナとて悪気があったわけではないのだ」

「陛下……

 国王オイロフである。国王にこう言われては女官長も口を噤むしかない。

「さあ、ヘルミナ。こちらにおいで」

 オイロフは、やはりユーリシアには目もくれずにヘルミナ王女を手招きした。

「おねえちゃま……

 ヘルミナは父と異母姉を交互に見比べていたが、母親に手を引かれ、父王に従ったのだった。

 彼に抱き上げられ、小さな王女にもようやく笑顔が戻った。

 一方の女官長は不満顔だ。国王の子を懐妊したことによって側妃として取り立てられたとはいえ、ウーリィカは貴族とは名ばかりの家柄の生まれ。対して、ゾフィーネは、重臣を何人も輩出してきた伯爵家の出身である。元々カタヴィナ妃付きの女官であったのだが、母親のないユーリシア王女を心配した妃が女官長にと寄越したという経緯がある。女官として自分より下位であったウーリィカが、元の主と並び立っている現状が面白くないらしく、何かとウーリィカに突っかかっている。

 ユーリシアはそんな女官長の様子に呆れ顔でルードヴィクと顔を見合わせたが、次の瞬間に少しばかり表情を変えた。

「どうかなさいましたか?」

 怪訝そうな護衛官に、彼女は声を潜めて囁いた。

「足を挫いてしまったみたいなの」

 またヘルミナが叱責を受けることのないよう、彼にだけ聞こえるように。ドレスで完全に隠れてしまっているが、ユーリシアは踵の高い靴を履いていた。そのせいもあるのだろうか、よろけた拍子に足首を捻ってしまったらしい。先ほど一瞬感じた痛みがじわじわと広がっていく。彼女の言葉を聞いたルードヴィクは難しい顔をしたが、それもわずかな間のことだった。

「恐れながら、陛下」

 彼はこちらに背を向けている国王に呼びかけた。

「ユーリシア殿下は気分が優れぬようですので、大変申し訳ありませんが、これにて失礼させていただきとうございます」

 ルードヴィクの言葉に広間のあちこちから失望の溜め息が上がる。

 国王はチラリと娘を見ると、すぐにまた王女に対して背中を見せたのである。

「ああ、そうするがよい」

 この日、父と娘が目を合わせたのはこれが二度目だった。

 ユーリシア王女が、護衛官に支えられながら広間を後にする。

 その様子を見守っていたクラニクスの隣で小さな声が漏れた。

「ひょっとして、今の――

「どうしたんだい、ライナート」

 それを聞き咎めたパヴァールの声も聞こえていないのか、ライナートは軍人とは思えぬ細い指を顎に当てて何やら考え込んでいた。

 二人の視線が自身に集中していることに気づいたライナートは、指を離してふんわりと笑った。生憎その表情を見たのは男二人だけであり、女性達を魅了するはずの笑顔もさっぱり効果はなかったのである。

「いいや。なんでもないんだ」

 そう答えた彼は、国王達に目をやった。ユーリシアの不在を残念に思う様子もなく、王女ヘルミナの愛らしい姿に相好を崩す国王。控え目な微笑みを浮かべているウーリィカ妃。カタヴィナ妃よりも年上の彼女は落ち着いた佇まいだ。身に纏うドレスもまた、彼女の性格を映しているかのような控え目なもので、対照的である。

 しかし、二人の娘ヘルミナは時折表情を曇らせ、異母姉が出て行った扉の方向を振り返っていた――

「失礼します」

 広間を出るなり、ユーリシアの身体がふわりと浮き上がった。いや、そうではない。ルードヴィクに抱き上げられたのだ。

「カイエン殿!」

 抗議の声を上げたのはユーリシアではなく、女官長ゾフィーネだった。

「ユーリシア様はお怪我をなさっています。どうか、ご容赦を」

 女官長の金切り声もどこ吹く風、ルードヴィクはユーリシアを――人一人を抱きかかえているとは思えない速度で歩き出した。

「あっ、これ、お待ちなさい!」

 ゾフィーネも二人の後を追いかけるが、長い裾のドレスを身に纏っている上に年も年だ。あっという間に引き離されてしまう。

「ルド、下ろしてよ。歩けるわ」

――

 王女の口調はガラリと変わっていた。表情もだ。大人しく、儚げなユーリシア王女はどこにもいない。緑色の瞳で、ルードヴィクを軽く睨んでいる。

「ちょっと、無視してるんじゃないわよ」

「暴れないでください。落としてしまいます」

 ユーリシアの劇的な変化にも彼は驚く様子はない。何故なら、広間にいた王女の姿はすべて彼女の『芝居』であることを、この護衛官は元から知っていたからである。

「ヘルミナ様を気にされて、痛みを我慢なさっていたでしょう。痩せ我慢は何の益にもなりません」

「何ですって?」

 痛みを堪えていたのは事実だが、どうしてこの男はいちいち『痩せ我慢』などと癇に障る言葉を選ぶのか。

――体調が悪いふりをしてさっさと出てくるつもりだったのに、怪我をしてしまったのは誤算だったわ」
……

 ルードヴィクは口を閉ざしているが、何か言いたいことがあるのは分かる。それくらいのことは分かる、長い付き合いだ。

「何よ?」

――いえ。何でもございません」

「何でもないような態度じゃないけれど?」

 そうやって二人で言い争っている間に、ユーリシアの部屋に到着したのだった。

「ユーリ様、お兄様、どうなさったのですか!?

 彼女達を出迎えたのは、蜂蜜色の長い髪をお下げにした小柄な娘だった。ルードヴィクに抱き上げられた王女の姿に、明るい空色の瞳を丸くしている。

「ただいま、エラ。ちょっとね」

「足を挫いたようだ」

 ユーリシアは曖昧に微笑んでみせたが、間髪入れずにルードヴィクが簡潔すぎる説明を付け加えた。

「まあ、大変! ユーリ様、こちらの長椅子へ」

 ルードヴィクが主を長椅子に下ろす一方で、エラと呼ばれた娘はユーリシアの背にクッションを当てていた。

――!!

 何とか悲鳴は呑み込んだが、顔が痛みに歪んでしまうのはどうしようもなかった。ルードヴィクはそれ見たことか、という顔をして……は、いなかった。眉根を寄せ、深刻な面持ちで王女の患部をていた。

「仰るとおり、捻挫のようですね。痛みが引かないようでしたら侍医を呼びますが……。ひとまずはエステラ、冷たい水の用意を。よく冷やして差し上げるように」

 長椅子の肘掛けに身体を預けて安静にしているユーリシア。その側に跪いていたルードヴィクは振り返り、心配そうに二人の様子を見守っている娘に告げた。

「はい、お兄様」

 エラことエステラは、軽やかに身を翻して部屋を飛び出していった。そんなに慌てなくてもいいのに、とユーリシアは、長いおさげ髪が彼女の背で跳ねる様を見送ったのだった。

 エステラ・カイエンはユーリシアの乳母であったベリタの娘で、二人は乳姉妹ちきようだいということになる。彼女の兄がルードヴィクだ。エステラは、度が過ぎるほど生真面目で常に無表情を貫き通している兄とは正反対で、快闊で明るい娘だ。喜怒哀楽を素直に面(おもて)に表し、ころころと表情を変える様は見ていて飽きない。

 おそらく、エステラは母親であるベリタの気性をそのまま受け継ぎ、対してルードヴィクは父親に似たのだろうと、ユーリシアは思う。二人の父親とは会ったことはないが、厳格でいつも気難しそうな顔をしているのだとエステラに聞いていた。母ベリタ曰く不機嫌なわけではないらしいのだが、「お兄様と一緒で、そんなの外からではわかりません!」と、彼女は頬を膨らませて訴えるのだった。

 また、ベリタは娘のエステラがユーリシア付の女官となると、娘に王女を託してこの王宮から離れていた。

 水の入った桶を持って戻ってきたエステラは、冷たい水に浸した布を固く絞って、患部に当てた。彼女は本来、女官長に次ぐ次席の女官で、ユーリシアの身の回りの雑事は侍女達に任せてしまってもよいのだが、彼女自身はそれをよしとしなかった。どこか、王女を巡って兄と張り合っているきらいがある。もちろん、兄であるルードヴィクの方にはそのようなつもりはないのだが。女官長が薬湯を持ってきた時もそうだった。

「女官長、戻っていたのですね」

 ルードヴィクとエステラ以外の人間の前では、ユーリシアの口調はまた一変する。二人にとっては慣れたもので、主の変化に驚く様子はない。

「ユーリシア殿下、薬湯をお持ちしました。痛みによく効きますよ」

 女官長は、ユーリシアのいる長椅子の傍らに立っていたルードヴィクを一睨みし、もう一度王女へと視線を戻した。

……ええ」

 気が進まない。おそらく女官長は王女のことを慮って薬湯を用意してくれたのだろうが、体調を崩したときなどに飲ませられるこの薬湯はとにかく苦いのだ。

「お誕生日のお祝いだというのに、なんてことを。今日の日に合わせて、国内の若く、優れた貴族のご子息を数多くお招きしたというのに、折角の機会を――

 薬湯の載った盆を持ったまま、女官長の説教が始まる。

 十七歳を迎えた第一王女にいまだ決まった話がないことに一番やきもきしているのが、この女官長であったかもしれない。彼女はカタヴィナ妃の意向でユーリシアに仕えているのだが、元来の職務に忠実な性格故に、彼女なりに王女の行く末を心配してもいるのだ。ユーリシアにしてみれば、それは余計なお節介というしかないのだけれども。

 女官長のお説教は長くなる気配を見せている。こっそりとエステラに目配せをすると、彼女は心得ているとばかりに頷いた。こういうときに頼りになるのはこの妹の方である。堅物の兄はすべてわかっていながら助け船なぞ出してくれないのだ。

「女官長。後は私がやりますから、どうぞお任せ下さい」

 そう言って、薬湯を盆ごと奪い取る。途端に女官長の眉が吊り上がるが、エステラもその迫力に負けることはない。にこにこと形ばかりの笑みを顔に貼り付けながら、長椅子に横たわるユーリシアの前に立ち塞がったのだった。

 ユーリシア大事なエステラは、カタヴィナ妃の口利きでやって来た女官長に対する警戒心を最初から隠そうともしなかった。女官長の方も何かと反抗的な態度を取るエステラのことが気に食わないらしい。いや、単に馬が合わないというだけかもしれない。彼女達は事あるごとに些細な衝突を繰り返してきたが、ユーリシアの目から見るとまるで子どもの喧嘩である。二人とも職務に忠実である点においては見事な一致をみせているので、このように小さな諍いはユーリシアもルードヴィクも放っておくことにしている。

 彼女達はそのままの状態で睨み合っていたが、女官長の方が先に目線を外した。この勝利に、エステラはにんまりと笑う。小生意気に映るその笑みを睨み付けて、彼女は言った。

……それでは、後は任せましたよ」

 荒々しい靴音ながらも、昂然と背筋を伸ばし、肩をそびやかせて女官長は部屋を出て行った。

「べぇーっだ」

 扉が閉まる間際、その痩せた背に向かってエステラは舌を出した。王女に仕える女官にあるまじき振る舞いである。滅多に感情を露わにすることのない彼女の兄も、頭痛を堪えているかのような面持ちだ。彼の表情に、エステラのおかげで面白いものを見ることができたものとユーリシアは笑った。

「あ、そうそう。薬湯でしたよね」

 エステラの顔からすっと笑みが消え、彼女の表情は珍しく厳しいものにる。薬湯の入った椀を両手で持ち、一口口に含む。途端にエステラは思いっきり顔を顰めるのだった。……やはり苦いのだと、ユーリシアは嘆息する。

「そんな顔をするほど苦いのであれば、毒味役は私が務めると何度も言っているのだが」

「それこそ何度も言っているけれど、これは私の務めです、お兄様」

 エステラ曰く、兄ルードヴィクはいざとなれば彼の剣でユーリシアを守ることができる。自身にその技量はないが、気持ちは兄と一緒だ。彼女だって王女を守る盾でありたいのだ。だから毒味役は己の務めだと彼女は主張するのだ。

 女官長の職務に対する誠実さには疑いようがないが、やはり、念には念を入れるものだとエステラやルードヴィクは言う。

「ルドも妹が相手となると甘いのね。私にはその苦ーい薬湯をちゃんと飲むようにとうるさいのに」

「エステラには必要のないものですが、ユーリシア様はそうは参りません」

 ユーリシアはぷい、と子どもっぽく視線を逸らしたのだった。

「エラ、薬湯を飲むわ。こちらにちょうだい」

 エステラから渡された椀をじっと見下ろすユーリシアだったが、心を決めて深呼吸をすると一気に薬湯を干したのだった。何度口にしても慣れないほど、とにかく苦い。

 顔を顰めると、エステラがくすくすと笑っていた。本人はそれでも笑いを堪えているつもりらしいが、まったく抑えられていない。ユーリシアは肩を震わせているエステラを軽く睨んだが、それも続かなかった。

「あ、いけない。大事なことを忘れていました」

 笑いを収め、エステラはぱちんと両手を叩いた。

「ラーゲルクランツ侯爵夫人からお誕生日のお祝いが届いています」

 彼女が告げた名前に、ユーリシアの顔にも喜色が浮かぶ。

「侯爵夫人から? 毎年覚えていて下さっているのね」

 ラーゲルクランツ侯爵夫人ロザラインは父王オイロフの末の妹である。今は侯爵家に降嫁し、王都から少しばかり離れた夫の領地にいる。元々体の弱い女性で、表に出てくることは滅多になかった。幼くして母を亡くしたユーリシアの境遇に同情を覚えたのか、王女に何かと心を砕いてくれた優しい女性だ。彼女がラーゲルクランツ侯爵と大恋愛の末に結婚し、この王都から離れることとなった時のユーリシアの落胆は大きかった。しかし、離れても、彼女から毎年誕生祝いに装飾品が贈られてくることは変わらなかった。幼くして母のいない王女に、いまだ子のない侯爵夫人は祝いの装飾品を選ぶことを毎年楽しみにしているのだという。

 エステラが慎重に運んできた小箱を開けると、中に収められていたのはブローチであった。ユーリシアの瞳と同じ緑色に輝く石が填め込まれ、派手ではないが精緻な意匠が実に美しい。侯爵夫人の影響を受けてか、王女の好みも夫人に似通っていた。

「ユーリ様にとてもよくお似合いです。ねえ、お兄様?」

 ルードヴィクの頬がぴくりと引き攣った。女性の装飾品の話題など振ってくれるな、と言いたいのだろう。

「私にはそういったものの善し悪しは分かりかねますが、侯爵夫人がユーリシア様のためにとお選びになったものですから、間違いはないのでしょう」

 ほぼ予想通りの答えであったが、妹のエステラは不満そうだ。

「もう、お兄様ったら! そんな言葉で誤魔化したりしないで、似合っているとか、美しいとか、そういった褒め言葉のひとつやふたつ、出てこないのですか!」

 彼女はそう言って兄に詰め寄っているが、生真面目なルードヴィクの口から、貴族の子弟達のような歯の浮く甘い台詞が出てくるところなど想像できない。想像力にも限界というものがある。

「それと、もう一つなんですけれども……

 エステラが表情を改めた。

「どうしたの?」

 ユーリシアの目の前に小さなカードが差し出された。

「この部屋の前に置かれていたそうなんです。侯爵夫人からの贈り物を届けに来た者が見つけて……。たぶん、ユーリ様宛てなんだと思いますけれども」

 王女はそのカードを受け取った。そこにはただ一言、誕生日の祝いの言葉が記されていた。なるほど、この部屋の前に置かれていたことと、この文面。エステラが言うように彼女宛てなのだろう。だが、差出人の名前がない。それに、まるで慌てて書いたかのような殴り書きの乱れた文字である。

 ユーリシアはブローチとそのカードを一緒に小物入れに収めた。これまでラーゲルクランツ侯爵夫人から贈られた、彼女お気に入りの装飾品を収めた小箱である。

「それでは、私はこれで失礼します。エステラ、後のことは頼んだぞ。何かあったらすぐに私を呼ぶように」

「任せてください、お兄様」

 いつものやり取りを交わしている兄妹きょうだいを見守りながら、ユーリシアは思う。こんな時がいつまでも続けばいいのに、と。

 心までも凍らせる王宮において、エステラとルードヴィクのいるこの空間だけが、ユーリシアが唯一自由に息をすることのできる場所だ。自身の誕生祝いの宴だというのに早々に姿を消した王女に対して、皆呆れ果てたことだろうが構うまい。あんなところにいつまでもいるよりは余程いい。

「お疲れ様、ルド」

 王女の言葉に彼は一礼すると、大きな背中を見せて部屋を出て行く。

 それが儚い夢だということは知っているけれども。彼女は願わずにはいられなかったのである。

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