断章 女官の恋
(前略)
国王の寝所に現れたウーリィカは、呼びつけたこちらが罪悪感を覚えるほどに蒼白な顔をしていた。もちろん、国王が彼女に何を求めているのかは理解しているであろう。女官の中にはやたらと体を近づけて、大きく開いた胸元や細い腰を見せつけてくる者もあったが、この娘は彼女らとは違うらしい。
「怖いのか?」
「……は、い……」
震える唇から押し出された返事は酷く掠れていた。緊張のあまり、声もまともに出せないほどに固くなっているらしい。
「私が、恐ろしいか?」
ウーリィカは声を出すことを諦めたようで、今度は大きく首を横に振った。
オイロフは寝台の脇に置かれた小卓から自ら水差しを取って、グラスに水を注いだ。そして、そのグラスをまだ寝所の入り口で突っ立っているままの娘に差し出す。
「水だ。飲め」
ウーリィカは危なっかしい足取りで国王に近づくと、両手でグラスを受け取る。彼が見守る中、白い喉を晒して一気にグラスの中身を干したのだった。
はぁ、とかすかに息を吐き出した彼女に、オイロフが笑みを零すと、彼女はそれまで見つめられていたことにようやく気づき、恥ずかしそうに耳まで真っ赤に染め上げた。
「少しは落ち着いたか?」
彼女の手の中にあるグラスを取り上げて小卓に戻すと、空いた両手を取って彼女の体を引き寄せた。ウーリィカは一切の抵抗を見せずに、すっぽりと国王の腕の中に収まる。
どうしたらいいのかわからずに、ただひたすらに身を固くする彼女の初々しさはオイロフの心をくすぐった。俯き加減の娘の顎に手をかけ、そっと上向かせる。涙で潤み、揺れている瞳には自分の顔が映っている。自身の瞳にも、こちらを見上げる彼女の顔が映っているだろうか。
オイロフは、わななく唇を己のそれで塞いだのだった。
翌朝、国王の寵愛を受けるということがどういうことなのか、ウーリィカは早速思い知ることとなった。
彼女がオイロフの寵を得たことは瞬く間に他の女官達も知るところとなった。昨夜国王の寝所で過ごした、その事実が周囲の人間に知れ渡っていることはウーリィカにとっては気恥ずかしく、身の置き所がない。なるべく目立たぬよう、この日は殊更にひっそりとしていようと心に決めていたが、それは果たせなかった。
ウーリィカのことなど相手にもしていなかった女官達が彼女の元へとやって来て、親しげに話しかけるのだ。その中には彼女の家名を馬鹿にしていた同輩もいた。ウーリィカはその時のことなどおくびにも出さずに愛想良く応じたのだった。
その夜も、次の夜も。ウーリィカは国王の寝所に招き入れられた。このことをもって、奥宮において彼女は国王の愛妾と位置づけられたのだった。
* * *
時は瞬く間に過ぎていき、ウーリィカが初めてオイロフと夜を共にしてから季節は一巡していた。
「今宵も陛下がお呼びです」
彼女と同じくらいか少し年上だろうか、年若い女官が彼女の部屋を訪れ、そう告げた。その言葉にウーリィカは首を傾げた。
昨夜、閨でオイロフは至極残念そうな面持ちで「しばらくはお前を呼べないのだ」と言った。その理由は察せられ、問い質しても惨めになるばかりなので、ただ「またお呼び下さるのを心待ちにしております」とだけ答えた。ウーリィカの返事に気をよくしたのか、オイロフは満足そうに笑み、結局朝まで離してもらえなかった。
今夜も本当に国王は自分を呼んでいるのだろうか。その女官に念を押すと、彼女は「私はご命令をそのままお伝えしているだけですので」とだけ返してくる。
それに、いつもやってくるのはもっと年嵩の女官だが、今日はどうしたのだろうか。理由を尋ねると腰を痛めたためにこの女官が代わりを務めているとのことだった。
「わかりました。支度を手伝っていただけますか」
昨夜から気が変わったのだろうと、ウーリィカは結論づけた。
国王の寵を得ても、彼女は周囲の人々との接し方を変えることはなかった。以前よりも広い部屋に移ることになったが、身分は一女官のままである。変わったのは彼女の持ち物に、国王から贈られたドレスや装飾品が少しばかり増えたことくらいだ。
ウーリィカは鏡の前に腰を下ろし、女官が豊かな栗色の髪を梳る。
「痛っ」
櫛が引っかかってしまったのだろうか。痛みが走った。髪の毛も数本抜けてしまったかもしれない。
「もっ、申し訳ありません」
「いえ――」
いつもの年嵩の女官であれば――。口には出せないがウーリィカはひっそりと思う。彼女に対しては無愛想だが、手先が器用で髪を梳かしてもらっていると気持ちがよくてうとうとしてしまうほどなのだ。
「ああ、紅はそちらではなく、こちらを。先日陛下からいただいたものなのです」
いつもとは勝手が違うことに戸惑いながらも髪を整え、薄く化粧を施して、国王の寝所へと向かう。
あともう少しというところで、ウーリィカの足が止まった。部屋の扉が開け放たれている。そして、印象的な長い黒髪が目に映ったのだった。
――正妃ミレイヌだ。
オイロフ王の正妃がここに来ることもあるだろう。けれども。
(どうして……? 今夜は私を呼んで下さったのではないの……?)
足が震えた。
(あっ……!)
ウーリィカは息を呑んだ。
寝所を出て行こうとしているらしいミレイヌを、背後から伸びてきた腕が力強く抱きしめた。当然オイロフだ。彼は上衣を羽織っただけの姿だった。正妃は抵抗してしているようにも見えたが、男の力に敵うはずもない。情欲に濡れた瞳で、腕の中にいる囚われの女を見下ろす男。ウーリィカにはいつも優しく触れてくれるオイロフの、これまでに見たことのない野性味の溢れる顔に体の奥が疼いた。男の片腕は女の細い腰をがっちりと捕らえていて、もう一方の手で彼女の顔を強引に振り向かせて――荒々しく唇を奪う。
寝所に引きずり込まれるようにミレイヌの姿が消え、重い扉が閉ざされた――。
しばらくの間、ウーリィカは呆然と彼女を拒絶する扉を見つめていた。しかし、ハッと我に返って駆け出す。夜着の長い裾は走りにくくて何度も転びそうになりながら、彼女は自分の部屋に飛び込んだ。一人用の寝台に身を投げて、そこでようやく涙が溢れ出した。
(中略)
正妃ミレイヌの懐妊に国中が沸き立ったのは、それから二月ほど後のことだった。
(ミレイヌ様がご懐妊……。陛下の御子が――)
以前のウーリィカであれば、王子か、王女かとその誕生を心待ちにしたことであろう。けれども、今はふつふつと昏い思いが沸き立つばかりである。
彼女は自身の平らかな腹を見下ろし、そっと撫でた。
――あなたにも御子が誕生すれば、陛下も妃として取り立て下さいましょう。
ウーリィカに媚びへつらう女官達の誰かがそう囁いた。妃の身分など要らない。大貴族の令嬢として生まれ、いつも自信に満ち溢れているカタヴィナ妃のように振る舞うことなど、自分には到底無理だ。けれども子は――。
(陛下との御子が欲しい)
ウーリィカは切なく溜め息をつくのだった……。
* * *
子どもの甲高い声が聞こえてきた。今現在、この奥宮に住まう子どもはミレイヌ妃が産んだ王女ユーリシアのみ。しかし、この声の主は五歳になったばかりの王女のものではなかった。
ウーリィカは針を布に刺して刺繍を中断すると、窓辺に近づいた。そこからは奥宮の中庭の様子を眺めることができる。予想どおり、そこにはユーリシアと彼女の乳母であるベリタ、そしてベリタの息子と娘が揃って遊びに来ているようだ。先ほどの声の主は大人しい王女ではなく、彼女と手を繋いでにこにこと上機嫌な乳母の娘のものだった。
微笑ましい、そして羨ましい光景だった。
二人の少女の後ろを彼女達の歩調に合わせて歩いている少年は、木を削り出して作られた剣を腰に提げている。空いている時間には近衛隊の兵舎に入り浸り、暇を持て余した近衛隊士達の玩具になっている――もとい、剣の稽古をつけてもらっているらしい。まだ非力な子どもなのだから、少年をからかって遊んではいても、れっきとした剣士である近衛隊士達に敵うはずもないのだ。生真面目な少年は、隊士達のちょっかいを自身に課せられた厳しい試練と捉えているようで、何度地に転がされても再び立ち上がって相手に向かっていく。……気の毒なことである。しかし、その姿勢に、子どもでありながら一目をおいている隊士も少なくないという。
少女達を見守っていた少年が何かに気づいたのか、母親のベリタに声をかけた。彼らの眼前には正妃ミレイヌの姿があった。ほとんど自室に閉じ籠もっている彼女がこんなところに出てくるとは珍しい。乳母とその息子は揃って道を譲った。ぽかんとしていた娘も、兄に手を引かれて彼らに倣う。しかし、少女は王女と引き離されたことが不満らしく、唇を尖らせていた。
王女がミレイヌの前に立った。
「おかあさま、ごきげんよう」
彼女は膝を折って頭を下げ、淑女らしく挨拶した。今のところオイロフ王唯一の子として、王女には数多くの教師が付けられていると聞くが、当然礼儀作法もそのうちの一つに含まれているのだろう。
ユーリシアの挨拶を受けて、ミレイヌは一旦は立ち止まった。娘と同じ色の緑の瞳で彼女を見下ろす。しかし、王女に一言も言葉をかけることなく、正妃は通り過ぎていったのである。
国王と正妃の間に生まれた王女ユーリシアの存在も、ミレイヌの頑な心を溶かすことはなかったようだ。
(何てことを……)
ウーリィカは、思わず口元を手で覆った。王女の面には何の感情もなかった。幼い少女がこういう顔をするものかと驚きを禁じ得ない。
正妃に道を譲ってその脇に退いていた乳母は痛ましそうに王女を見つめ、その息子は唇を横に引き結び、俯いている。
「……ミレイヌ様はお隣の国からいらしたので、こちらの国の言葉がお分かりにならなかったのですよ」
乳母のベリタが取りなすように王女を慰めたが、もちろんそれは彼女が幼い王女のためについた嘘だ。
「ならば、わたしがヴォルテロワ語を学ぶわ。ベリタ、ヴォルテロワ語の教師をつけてくれるよう、たのんでちょうだい」
「ですが、ユーリシア様は今でもたくさんのお勉強をなさっているでしょう? これ以上増やしてしまったらお体にもよくありませんよ」
「かまわないわ」
王女は乳母の言葉を突っぱねる。すると、乳母の娘がとことこと戻ってきて、王女の袖を引いた。
「ユーリさま。ユーリさまのお勉強の時間がもっとふえたら、エステラはユーリさまとあそべなくなってしまうのですか?」
ユーリシアはうっ、と言葉を詰まらせた。
「……それは――とてもこまるわね」
王女は幼い顔には似合わぬ深刻な面持ちで考え込んでいた。このことは彼女にとっては大層な重大事であるようだ。
「わかったわ。この話はなしにしてちょうだい」
乳母とその娘は揃って胸を撫で下ろしていた。すると、黙って彼女達を見守っていた少年が口を開いた。
「エステラ、お前はユーリシア様のお邪魔ばかりをしているだろう。もう少し控えろ。昨夜だってユーリシア様の部屋に忍び込んで、母上に叱られたばかりじゃないか」
「邪魔なんかじゃないわよ、ルド」
「邪魔なんかしていません、にいさま」
見事に声が揃っている。愛らしいが迫力のある四つの瞳に睨まれて、今度は少年が言葉を詰まらせている。
「さあさあ、参りましょう。お勉強も大切なことですけれど、こうしてお日様の下でお散歩をすることもあなた達には必要なことですからね」
「はぁい」
乳母の娘はころころと笑い、先ほどまで自分に小言を言っていた兄の右腕に纏わり付いている。彼女にはまったく効いていないのだと、少年は溜め息をついた。それでもやはり可愛い妹なのだろう、彼女の手を取って繋いだ。
対して、王女はおずおずと少年を見上げていた。彼女の視線をもちろん逃さなかった少年は、彼にしては精一杯の笑顔で空いている左手を王女に差し出した。
「ユーリシア様、どうぞ」
王女ははにかみながら、その手を握り締めたのだった。